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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

[特集] 新・日本のピアノ

2023-01-17 17:57:17 | 音楽一般
クラシック音楽館 [特集] 新・日本のピアノ
2023年1月15日NHK Eテレ 
 
① 矢代秋雄「ピアノ・ソナタ」 ピアノ:河村尚子
② 武満徹「ピアノ・ディスタンス」 ピアノ:高橋アキ
③ 一柳慧「ピアノ・メディア」 ピアノ:中野翔太
④ 吉松隆「朱鷺によせる哀歌」 ピアノ:黒木雪音 指揮:齋藤友香理 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
⑤ 西村朗「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー」 ピアノ:實川風、務川慧悟 指揮:齋藤友香理 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
⑥ 松平頼暁「ミケランジェロの子犬」 ピアノ:中野翔太
⑦ 細川俊夫「月夜の蓮 モーツァルトへのオマージュ」 ピアノ:菊池洋子 指揮:齋藤友香理 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
⑧秋山邦晴 作詞、武満徹 作曲、西村朗 編曲 「さようなら」 ピアノ:高橋アキ

とても珍しい充実した企画である。いつだったか滝廉太郎が日本ではじめてピアノ曲を作曲してからしばらくのいくつかの作品が紹介されたことがあったが、これはそのあと、戦後を代表する作曲家たちの作品をたどる、紹介する優れたものだった。
 
こうして聴くと、日本のピアノ音楽、特に戦後から半世紀近くで、世界の20世紀ピアノ音楽の中でも、ラヴェル、メシアン、プロコフィエフなどの後に続くものになっていると言っても不思議はないと思う。
 
矢代秋雄のピアノソナタ、以前N響定期ではじめて聴いて驚いた記憶がある協奏曲もそうだが、わかるとかわからないとかでなく、とにかくこういうものと素直に聴けばなにかたいへんなものが入ってきているのがわかる。
このソナタの演奏も協奏曲の時と同じ河村尚子、しばらく我が国の中堅若手の人たちを聴いていなかったが、このひとちょっと抜けた存在だと思う。この強いアタックの連続があってもぶれない説得性というか。
 
一柳のシンプルな攻撃性?、松平のコンンピュータウイルスに侵された「子犬のワルツ」、西村朗のヘテロフォニーはなるほどピアノにはこういう特性とポテンシャルがあるのかと思わせる。
 
細川の月夜の蓮、吉松の朱鷺によせる哀歌、いずれもきわめて強く新しい美しさ、堪能できる。
 
また過去の何人かのピアニストの姿がでてきたのもなつかしい。その中でここで現役として演奏、解説した高橋アキ、随分ながい間映像でみていなかったが、健在である。78歳だが、私が1970年ころ、東京文化会館小ホールでケージ、武満、高橋悠治、松平などの曲を聴いた時の印象からすると、かなり愛想よくなった(失礼)と思う。上記の会では最後がメシアンでやはり作曲家として格上と感じてしまったが、その時からすると今回のこの番組のプログラムはその後の日本の歩みを示すものであり、誇っていいかもしれない。

なお最後の「さようなら」はしっとりと情感たっぷりだった。彼女は秋山と結婚していたが先立たれた。こういう曲があったことは知らなかった。なかなかにくい選曲である。
 


リヒャルト・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」(メトロポリタン2022)

2023-01-06 10:16:38 | 音楽一般
リヒャルト・シュトラウス :歌劇「ナクソス島のアリアドネ」
指揮:マレク・ヤノフスキ、演出:エライジャ・モシンスキー
リーゼ・ダーヴィッドセン(アリアドネ)、ブレンダ・レイ(ツェルビネッタ)、イザベル・レナード(作曲家)、ブランドン・ジョヴァノヴィッチ(バッカス)
 
シュトラウスの作品はこの数年よく観ているが、これは久しぶりというかこれだという印象があまり残っていない。
この前見たのはと探してみたら、数年前に最初の版改訂版を続けて観ていた。
 
今回は通常の改訂版で、貴族の邸宅でオペラを上演する前のどたばたがあり、結局オペラに加え最初はなかったコメディが一緒に上演されるという、2幕からなるものである。
オペラとして楽しむには、それにメトロポリタンであればやはりこっちだろうか。
 
最初の幕ではここしか出ない作曲家の歌唱に焦点があたるが、イザベル・レナードは役にぴったりで、このさわぎからも本編のアリアドネを想像させ、聴かせる。女声で男性を演じるいわゆるズボン役だが、風貌もぴたり。シュトラウスはズボンが好きだなあと思う。
 
ナクソス島で生き延びたけれど一人になってしまい嘆いているアリアドネはリーゼ・ダーヴィッドセン、この長丁場の嘆きの歌が聴かせる。先入観で可憐な役かと思っていたが、これはワーグナーも歌うかと思わせる強い声とスタミナが必要で、これまでにもそういうソプラノ、ジェシー・ノーマン、モンセラ・カバリエなどが演じている。なおダーヴィッドセンによれば彼女のティアラはかってノーマンが使ったものだそうだ。
 
ツェルビネッタもその曲芸的で長いコロラトゥーラで聴かせるが、スピーディでコミカルな動作とも、ブレンダ・レイは見事だった。
 
この演出では、あえて二つの劇をひねった組み合わせで面白くみせようとはせず、あくまでアリアドネに焦点をあて、舞台の奥の大きなでも目立たない引き戸からツェルビネッタなどコミカルな連中を出入りさせ、観客の眼と耳がうまく作品を鑑賞できるようにしていた。だからといって変化に乏しいものではなく、そこが今回の収穫。
 
ツェルビネッタたちや、女三人の精たちの演技を見ていたら気がついたのだが、これって「魔笛」(モーツアルト)の巧みな引用(むしろ借用?)ではないだろうか。私が嫌いなザラストロがいないのもいい。
 
終わってみればヤノフスキの指揮は、小編成的な雰囲気で流れがよく、歌手たちが歌いやすそうなバックアップ、これはこの人ならではと思わせた。
 
それにしても、初版と改訂版の間には第1次世界大戦があったわけで、シュトラウスはどのような気持ちでこれを書いていたのだろうか。

プッチーニ「三部作」補足

2022-12-31 21:00:06 | 音楽一般
このところプッチーニ「三部作」についてアップしていて、その中で三つ続けて観たのは多分二回目と書いたが、調べてみたらそれは2014年、リッカルド・シャイー指揮ミラノ・スカラ座であった。
 
その時は通常通り「外套」、「修道女アンジェリカ」、「ジャンニ・スキッキ」の順。
今読み返してみると、感じ受け取ったところはそうかわらない。
歳を重ねているから、今回は少し大まかなものになっているけれど。
 
前回の連続公演では歌手たち特にプリマはそれぞれ違う歌手が演じている。プッチーニも特に指定していないからそれでいいのだし、そうやって対照を見せるのは自然である。
ただ今回のようにあえて一人の女声を起用すると、それはやはり効果がある。もしプッチーニが聴いたら、してやったりだろうか。
 
この三作、よく聴けばプッチーニの評価はさらに上がるのではないか。

 

プッチーニ「修道女アンジェリカ」

2022-12-29 17:04:33 | 音楽一般
プッチーニ:歌劇「修道女アンジェリカ」
アスミク・グリゴリアン(アンジェリカ)、カリタ・マッティラ(公爵夫人)、ハンナ・シュヴァルツ(修道院長)
 
さて三番目、最後は「修道女アンジェリカ」である。
アンジェリカは修道女のなかではかなりいいところから来た、薬草にくわしい人と思われているが、信心深く院長の信頼もある。
 
そこに彼女の叔母である公爵夫人があらわれる。アンジェリカは7年待ったという。アンジェリカの両親は20年ほど前に亡くなり、その遺産は公爵夫人の管理となっていた。アンジェリカには妹がいてこの度嫁ぐことになり、そのために遺産相続の権利を放棄してほしいというが、アンジェリカは拒否する。実は彼女には結婚に至らずに生んだ男の子がおり、7年前に引き離されているのだが、その子はどうなったかと問い詰めると、亡くなったという。
 
その瞬間、アンジェリカは髪をふりほどき、僧衣を脱いで狂乱のまま薬草を飲んで自殺しようとするが、自殺は神にそむくことと悩んでいると、わが子(幻影)が現れ、喜びと苦痛の混じった恍惚の中でアンジェリカは息絶える。
 
この作品だけは修道院のなからしいものと予想していたが、終盤にきて、これはわが子に対する罪の意識、叔母に代表される世間との闘い、その中でいかに生きるか、というドラマの場所が修道院ということだろう。
 
そこは世間の中で生きていく女性をプッチーニがいかに描いたかである。
容易に想像できるのは、叔母がアンジェリカに妹が結婚するからと諭すのは「椿姫」(ヴェルディ)のアルフレードの父親を連想させるし、最後の男の子(ぼうや)を抱いて死に至るまでの激しく美しい歌唱はまさにプッチーニ自身の傑作「蝶々夫人」である。
 
今回この順番で本作が最後になったのは、女の一生のいくつかの側面を年齢とともに並べるとこうなるのかと思われるが、「外套」とはどちらが年上かは微妙なところ。

三作を続けて上演するのが原則だが、各ヒロインは別の人が演じるところ、今回アスミク・グリゴリアンが通して演じたのはたしかにたいへんなことだろう。体力的にもそうだが、役柄がまるで違うわけだから、想像を絶するというか想像してしまうところも醍醐味かもしれない。

とにかくたいへんな人である、歌唱力、演技力、そして魅力を感じてしまう人間力というか。リトアニアの出身らしいが、このところバルト地方からは優れた才能が続々と出てくる。
 
修道院長のハンナ・シュヴァルツ、バイロイトによく名前が出ていたが、今年79歳、こういうところに居るのはいい。

 


プッチーニ「外套」

2022-12-26 21:12:49 | 音楽一般
プッチーニ:歌劇「外套」
ロマン・ブルデンコ(ミケーレ)、アスミク・グリゴリアン(ジョルジェッタ)、ジョシュア・ゲレーロ(ルイージ)
 
さて二番目は「外套」である。アスミク・グリゴリアンはここでかなり年上の運搬船船長の妻になっている。二人と若い船員、その三人のおよそは予想通りの展開となるドラマ。
プッチーニはヴェリスモ世界の一人とも言えるから、これは「ジャンニ・スキッキ」よりすんなり入っていく。
 
ただしそこはプッチーニで、なんともやりきれない感じで終始するわけではなく、周囲の人たち、その音楽など、なかなか聴かせるところは持っている。聴いているうちにここの背後には「ボエーム」があることに気づく。周りの人たちがミミに言及するが、確かにミミが生きながらえていてもジョルジェッタになった可能性もある。そして音楽も「ボエーム」第三幕の冒頭、入市税関所近くのカフェで女たちが歌うところを連想させる音楽もある。
 
中心となる三人ははまっていてうまい。男二人は歌唱、演技で適格だが、それにしてもグリゴリアンはあのラウレッタからこの可愛くてエロティックでしたたか、しかし同情も誘う、なんともいえない魅力的な存在感である。
 
そしてクライマックス、ここでオーケストラが主人公に躍り出る。そうなると軽いオケではだめで、イタリアのオケよりドイツ系の方がいいかもしれない。ここはウィーンフィルだけあったといえるだろう。
 
半世紀近く前にカラヤンが録音した「ボエーム」はベルリンフィルで、驚かれたものだが、聴いてみて特に襲いかかるようなクライマックスはこのオケでないと、と納得した。それはこの「外套」でも同じであった。
 
ところでこのドラマの中での「外套」は過去の、そして今この悲劇の、なにかをしばしあまく覆ってくれるものという役割だが、そういえば「ボエーム」でもあの哲学者コルリーネが最後なにかミミに役に立つものをと、思い出がつまった外套を質屋に持っていくエピソードがあったっけ。