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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

モーツアルトの主題による変奏曲とフーガ(レーガー)

2024-03-18 13:42:21 | 音楽一般
モーツアルトの主題による変奏曲とフーガ  作曲:マックス・レーガー
指揮:ファビオ・ルイージ NHK交響楽団 2023年12月6日
 
このところNHKでこの楽団が出来てから2000回の定期公演までの3回を3週にわたってTV放送している。
2回目1999回ではめずらしい曲が取り上げられた。モーツアルトのピアノソナタK.331、あのトルコ行進曲が第三楽章にあるよく知られた曲の第一楽章、これは主題と変奏であるが、その主題を使ったオーケストラによる変奏曲とフーガである。
 
ソナタの第一楽章にはトライしたことがあって、いくつめだったかで挫折してしまったが、よくなじんでいたから今回楽しみにして聴いた。
 
しかし予想とちがってこれはかなり凝ったもので、古典派の主題を使ったベートーヴェン、ブラームスや、ラフマニノフのものなどに比べると、演奏家、聴衆のためというより作曲家自身のためという性格が強い。それでもなかなか聴き甲斐はあって、ルイージも言っていたようにもっと演奏されてもいいかと思う。レーガー(1873-1916)の名前は知っているが特になにか聴いた記憶はない。何度か繰り返し聴くともっといいかもしれない。しかし調べてみてもCDの発売はほとんどなく、過去に演奏会はあってもレコード、CDはほとんどなかったようだ。
 
この曲の存在をはじめてしったのはN響をよく振っているブロムシュテット(指揮者)のインタビューだった記憶がある。ドイツで仕事をしようかと出てきたとき、ラジオだったかでカラヤンが指揮するこの曲を聴いたと言っていたような気がする。カラヤンの話のメインはブロムシュテットが後に職を得るドレスデン・シュターツカペレに関して、カラヤンが指揮録音したあの奇跡的な「マイスタージンガー」に関するものだったが。
 
そうこのレーガーの曲はいまのように予算の事情からからかスタジオ録音でなくライヴですますということでなく、スタジオで練りに練って完成させる録音が残っていれば、そう考えるとまさにカラヤンが残してくれていればと思うのだ。
 
晩年、どういう執念かモーツアルトのデイヴェルティメントやリヒャルト・シュトラウスの「変容(メタモルフォーゼン)」を繰り返し録音したのであれば、この曲一回くらいなんとかならなかったか。ニールセン「不滅」なんていう意外なものを録れるくらいなら。
 
脱線したがN響の演奏は最後まで注意をそらさず聴くことが出来た。

ケルビーニ「メデア」

2024-03-09 16:43:07 | 音楽一般
ケルビーニ:歌劇「メデア」
指揮:カルロ・リッツィ、演出:デイヴィッド・マクヴィカー
ソンドラ・ラトヴァノフスキー(メデア)、マシュー・ポレンザーニ(ジャゾーネ)、ミケーレペルトゥージ(クレオンテ)、ジャナイ・ブルーガー(グラウチェ)、エカテリーナ・グバノヴァ(ネリス)
2022年10月22日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場
2024年2月 WOWOW

聴くのも観るのもはじめてである。マリア・カラスの代表的なレパートリーということは知っていたが。
メトロポリタンとしてもはじめだがなぜかというと歌える人がいなかったということらしい。
 
古代ギリシャ劇の世界、コリントの国王クレオンテの娘グラウチェは英雄ジャゾーネとの結婚をひかえているが、ジャゾーネは離縁した前妻メデアとの間に二人の子供を設けている。
恨んだメデアはコリントに乗り込んでいって、ジャゾーネに迫る。メデアは退く代償として二人の子供に一日会うことを約束させるが、その結果の悲劇がメデアの復讐となる。
 
とにかく全編メデアの怒り、激情のようなもので、見ていてこのオペラにひたれるという具合にはいかないが、ともかくメデアの歌唱、それを支えるオーケストラはたいへんなものである。
この作品は18世紀末のものということはモーツアルトとロッシーニの間くらいということになるが、もうヴェルディからワーグナーと同時代といってもおかしくない。
 
そうわりきった上では、ラトヴァノフスキー(メデア)の歌唱、演技は激しさ特に力強さは大変なものだし、主人公に感情移入できなくても動かされるものがある。
マクヴィカーの演出は装置、照明含め見事なものだったし、リッツィの指揮もドラマを見事に語っていた。

とにかく一度観ておいてよかったとは思う。カラスにはさぞフィットしただろう。





リヒャルト・シュトラウス「影のない女」

2023-09-19 17:50:59 | 音楽一般
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「影のない女」
指揮:キリル・ペトレンコ、演出:リディア・シュタイアー
エルザ・ファン・デン・ヘーヴァー(皇后)、クレイ・ヒリー(皇帝)、ウォルフガング・コッホ(バラック)、ミナ・リザ・ヴァレラ(バラックの妻)、ミヒャエラ・シュスター(乳母)、ヴィヴィアン・ハータート(少女)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、2023年4月5、9日 バーデンバーデン祝祭歌劇場
 
この数年このオペラを見る機会が何度かあり、特に2019年ウィーンでの上演でかなり理解が進み、またよく味わえたと思ってきた。今回も期待したが、これは外面的にもこれまでとあまりに違った印象で、最後まで戸惑ってしまった。
 
演出のシュタイアーはいろいろ細工をしてわかりやすくしたようだが、衣装、舞台装置などかなり明るく派手、キッチュというか、20世紀前半の庶民的な趣味の悪さなのか、下層階級の染め物師バラックの世界ではない。なんとか似合ってるのは皇帝と皇后くらいか。
 
そして舞台は、妊娠させられてしまった少女たちをあずかっている修道院という設定なのだが、そのうちの一人が黙役で最初から最後まで出てきて、登城人物たちにからみ、なにか象徴しているのだろうか、説明的すぎて、こちらの注意がそがれる。熱演なのだがそれは別。
終盤にこの娘に対応する歌詞が出てはるから、これにヒントを得た演出なのだろうが、あまりにも自分勝手。
 
歌手たちはまずまずで、このオペラでキーとなるバラックの妻も乳母もうまいが、今回はヘーヴァーの皇后がよかった。この話、終盤になって皇后が前に出てきて展開も音楽の盛り上がるが、ここで聴かせた。
 
とはいえ、音楽は本当に素晴らしく、ペトレンコ指揮ベルリンフィルの腕の見せどころだった。音楽だけ聴いているほうがよかったかもしれない。
 


プッチーニ「トゥーランドット」(メトロポリタン)

2023-08-04 09:24:45 | 音楽一般
プッチーニ:歌劇「トゥーランドット」
指揮:ヤニック・ネゼ=セガン、演出:フランコ・ゼッフィレルリ
クリスティーン・ガーキー(トゥーランドット)、ユンク・エイヴァソフ(カラフ)、エレオノーラ・ブラット(リュー)、ジェイムズ・モリス(ティムール)
2019年10月12日 ニューヨーク・メトロポリタン  2021年11月 WOWOW
 
2019年のシーズン開幕でライブ配信されたもので、セガンにとっては初めての役割だったようだ。録画してあったのだが、なぜかそのままになっていた。
 
ゼッフィレルリが演出でこれを見るのは初めてかもしれない。彼が演出した「ボエーム」(指揮はカルロス・クライバー)はライブで見たことがあって感銘を受けたが、プッチーニの作品でボエームは音だけでも深く味わえるけれど、「トゥーランドット」はヴィジュアルの要素が入らないと難しいと思う。
 
話がかなり荒唐無稽なのもあるが、あの宮殿前の合唱とオーケストラの迫力ある流れはまさにゼッフィレルリとしてもやりがいがあって、特にこの人の衣装、美術の徹底が活きるところ。
この話、トゥーランドットとカラフの描き方は他の作品と比べて集中的ではなく、もう少し大きな広がりの中で進めていくように見える。
 
王女と先帝の専制体制ではあるものの、先帝の心配、役人の苦しみ、特にピン、ポン、パンが故郷を思い出してため息をつくところなど、映像と合わせてみた方がいい。
 
三つの謎ときがクリアされてしまい、それでもカラフの名前をめぐって、カラフの父チムールと従者の女性リューの葛藤が終幕まで続くが、以前からカラフを愛するリューが拷問されて名前をいってしまうのをおそれて自害してしまうところ、昔の話ではあるがどうも「身を退く」という感じで、台本でも工夫がほしかったところ。
 
最後は二人の口づけ、つまり男と女のシンプルな愛が勝つという答えで、これがこのオペラをこの位置に導いたのだろうか。
ユーラシアの様々な国、民族同士の軋轢がプライドと絡まっているのも考えてみたいところではある。
 
このオペラ、プッチーニ最後の作品で、これの初演を依頼されていたトスカニーニは、リューが死んだところでタクトを置き、作曲者はここで亡くなりましたと言って終わりにしたそうだ。
後にあらかじめスケッチを託されていた弟子が完成させた。
 
歌手は皆申し分ない。ガーキーが最後人間味を出してくるところもいいし、リューのブラットも共感を呼ぶ。カラフも王子としてのリリカルな歌が一途でタフなところをうまく出している。
モリスのティムール老、年取って演ずるのもいいものだ。
 
ところで、カラフといえば「誰も寝てはならぬ」、これはパヴァロッティ、と思い出して50年前のLPレコードを取り出してこの箇所を聴いてみた。メータの指揮、サザーランドのトぅーランドット、カバリエのリュー、ギャウロフのティムールという豪華キャストで、英デッカ録音。
パヴァロッティはリリカルというよりドラマティックで、もちろん美声ではあるが、その強さでトゥーランドットを圧しているようにも聴こえた。しかし久しぶり、楽しんだ。
 
セガンの指揮、この作品は合唱、オーケストラ合わせて大音響でドラマを雄弁に語ることが求められていると思うが、それが得意なメトだとしても、見事な指揮。
 
あと、この上演とは関係ないが、ディズニーの「アナと雪の女王」は「トゥーランドット」に影響をうけていると思う。

 

ショルティの「マーラー第7」

2023-06-04 09:25:40 | 音楽一般
このところマーラーを聴くことがほとんどなかったが、久しぶりに何かをと思い、作曲者の頭の中をあまりさぐる聴き方でなく、音から、ということで、交響曲なら第7番にしようと思った。

LPレコード、CDがずいぶん場所をとるので、何年か前に整理した時、同じ曲でも複数かなりあるマーラー、第7はショルティかな、そしてショルティなら第7かなということになった。
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮 シカゴ交響楽団 録音:1970年のLPレコード
 
実にすっきりした響き、進行で、曲が、オーケストラが耳に入ってくる。変なストレスもない。
以前だったら、マーラーは鬱々として、歪みもあった方がなどと、いまから思うと先入観があったと記憶しているが、優れた作曲家なら今聴いているものが多分本来で、そこから出発するもの、という風に考えた方がいいのだろう。

ショルティという人も、私が若いころは、鋭敏でうまいが、何か表面的(なのではないかということだったのだが)という受け取り方だった。欧米の高い評価がよくわからなかったが、私の音楽への接し方も変化してきた。このタイミングでまた聴いてよかったと思う。
マーラーも思い通りに曲を進めていて、悲劇的なという思いを常に頭において聴いていた時期は、何ということだったのだろう。それも無理ないか?

ところで、これは英DECCA最盛期の録音である。50年前に買った時より再生環境が少しよくなったはいえ、まあこれは素晴らしい。英DECCAのマーラーではほかにもズービン・メータ指揮ウィーンフィルの第2番「復活」などあの最後のぐっと腰をいれフィナーレのトゥッティのになるところ、他の録音に聴けないすばらしさがある。

1970年前後には同じショルティでもワーグナーの「指輪」をはじめてとするオペラをはじめ、英DECCAの名録音は多い。カラヤン・ウィーンフィルのR.シュトラウス「ツァアラトゥストラ」(1959)なんか冒頭のパイプオルガンのまだ音らしいものが聴こえる前の空気の震えがたまらない。
このころはジョン・カルショウ、エリック・スミスというプロデューサーの名前を普通の音楽ファンでも知っていた。ある意味幸せな時代だった。