静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2013年03月10日 | 説教要約

「神のみ心のままに」 マタイによる福音書26章36~46節

 最後の晩餐を終え、一同は賛美を歌った後、オリブ山のふもとにあるゲッセマネの園へ行きました。主イエスは特に、三人の弟子(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)をそばに置き、祈り始められました。

Ⅰ 主イエスの願い

 主イエスは、どんな嵐にも迫害にも誘惑にも恐れおののかない方でありました。しかし、ここで主イエスは、罪のない自らが、人の罪、人類の罪を負って罪人となることに対して、「悲しみのあまり死ぬほどである」と祈っております。それは、罪がどんなに汚れのろわれているものであるか、また罪に対する神の厳格な裁きを本当の意味で知っていたからであります。ですから、主イエスは、この杯(人間にかわり罪を負い十字架にかかること)を避けたいと祈られたのです。

Ⅱ 主イエスのさらに深い願い

 十字架の道以外に人間を救える方法がなく、父なる神のみ心がそこにあると確認した主イエスは、自らの率直な願いより、さらに深い自らの願いである父なる御心に従うことを決断していくのです。十字架の前哨戦であるゲッセマネの祈りで勝利したからこそ、主イエスの私達の救いは成し遂げられたのです。

 み手とみ足のみか心も裂けて、君は死に給いぬ わたしのため

2013/3/10 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2013年03月10日 | 天のマナ

「喜ぶ者と共に喜ぶ」

 主イエスはパウロを通して、キリスト者の歩みを右記のみ言葉として語っています。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)

 ある牧師から、『「喜ぶ者と共に喜ぶこと」と「泣く者と共に泣くこと」と、あなたにとってどちらが難しいでしょう。』と問われたことがあります。しばらく思い巡らしていました。

 私にとっては、「喜ぶ者と共に喜ぶ」方が難しいなと感じています。それは、どうしてもひがみ根性があるからであります。「どこそこの教会が成長している」とか「どこそこの牧師が用いられている」とか、自分の口では「素晴らしいですね」と笑顔で言っていても、内側では比較しひがむ思いが潜んでいるからです。主によってきよめられ続けなければいけないと感じています。そして素直に心から喜んであげる者へと作り変えられ整えられたキリスト者とされたいのです。 

 

2013/3/10

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2013年03月10日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする