「救い主を迎えたマリヤ」 ルカによる福音書1章26~38節
本日からアドベント(待降節)に入りました。クリスマスメッセージを語らせていただきます。詩篇とマタイによる福音書は来年となります。
Ⅰ 神の偉大なわざ
神がなされるわざはいつも偉大で人間の想像を遥かに越えるものであります。神が救い主をこの世界に送られる時もそれはユニークでありました。両親のもと、父と母の人間的な営みではなく、聖霊なる神が、処女マリヤの胎に子なる神救い主イエスを宿らせるというものでありました。全くもってユニークであり、神のみわざ以外にありません。神の使いの告知は、処女マリヤが身ごもって男の子を産むこと、イエス(主は救い)と名づけよ、その子は救い主であるというものでした。しかし、マリヤは非常に驚き戸惑い恐れます。どうして処女である自分が男の子を身ごもれるのか、名前もイエスをと名づけること、その子が神の子であり救い主であるということ、受け入れがたいものでした。世界中の誰よりも、マリヤ本人が受け入れることができない内容であったからです。
Ⅱ 信じ従う者
けれども、マリヤはその数十秒後には、このことを信じ受け入れる告白をしています。どうしてでしょうか?この出来事の出所は神であることを知り、その神がなされていること、マリヤが信じていた神は全能の神であるからでありました。聖霊なる神により特別な方法をもって、神は救い主を送りなさったことを受け留めたのでありました。マリヤは、「神にはなんでもできないことがない」との神の言葉に立ったのでした。わたしは、「主のはしため(僕)です。お言葉通りこの身になりますように」との言葉に、彼女の信仰があふれ出ています。確信と平安に満たされた彼女は、救い主を送ってくだった神をほめたたえ、救い主の母とされたことを喜んで賛美をささげました。
マリヤのように信仰をいただき、主の救いをさらに受けていきたいのです。
2012/12/2 説教者 杉本守