静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2012年09月23日 | 天のマナ

「神の素晴らしさがあらわされる」    

「どうして学校に行って勉強しなくてはいけないの?」と聞かれたら、どう答えるでしょうか?

 ある方が、「学生の本分は学習・努力することです。社会に出るために、正しい判断力をつけるには、まず知識を蓄えることです。」と新聞に投稿したそうです。私は、「なるほど」と思いました。

 さらに私は、先週も引用させてもらいました曽野綾子さんの「学校は知識を得ると共に、人生を知り、苦難に耐えて生き抜く心身を鍛え、その技術を覚え、多様な人々と共生する社会というものの雛形を体験するところなのである。」という文章を読み、「なるほど」と思いました。単に知識だけではなく、心身を鍛え共に生きることを経験する場であるということでしょう。

 私は、上記の内容に、「主なる神が、あなたを通して神の素晴らしさをあらわすためである」と付け加えたいのであります。

 「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(第一コリント10章31節)。

2012/8/23

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主日礼拝説教要約

2012年09月23日 | 説教要約

「神に信頼する」 詩篇62篇1~12節

 この詩篇は、「故人の信頼」をあらわした詩で、アブシャロムに王座を追われた時のダビデの詩ではないかと言われています。

Ⅰ 決して動かされない

 「人を尊い地位から落とそう」とあるように、ダビデは王座を追われ、その中で「傾いた石垣」「揺り動くまがき」とあるように、自らをそのように感じていました。しかし、神に目を向けた時、彼は、決して動かされないことを感じ確信し告白したのです。

Ⅱ 神こそ我が岩

 彼は、アブシャロムによって民衆(低き人)は騙され、彼の側近でさえも(高き人)も操られ、人に頼ることの空しさを感じ、人ではなく神に頼ったからです。その神こそ岩である。「ただ」「こそ」との繰り返しは、Only God(神のみ)である確信の告白であり信頼であります。

 私達は神を見上げ神に信頼しているでしょうか。ただただ神により頼むものでありたいのです。

2012/9/23 説教者 杉本守

 

 

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講壇の花

2012年09月23日 | 生花
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