静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2011年09月18日 | 天のマナ

 「神を愛することは能動的(自ら他へ働きかけるさま)」

 

「子供と大人の違いは?」との質問に、このように応えている人がいました。それは「子供は受けるだけだが、大人になると与えることをする」というものでした。子供は親の愛情を受けて育ちます。そして、大人になっていくと親から愛を受ける(受動的)だけではなく、親の愛に応え、親を愛することをしていきます。

 

先日の箱根の夏季聖会である牧師が、メッセージの中で「神を愛することは能動的である」と語られていました。私たちは、神によって造られ生かされ救いを受け、神の愛を十分に受けています。私たちの信仰は受けるままの子供でしょうか?大人の信仰になっているでしょうか?愛や恵みは受けるけど、仕えること従うことをしない子供の信仰ではなく、能動的な大人の信仰であらしていただきたいのです。

 

昨日も雨の中、礼拝の準備の奉仕を誰が見ていなくても、黙々と忠実になされている姉妹達を見て、神を愛することを能動的になされている大人の信仰をみさせていただきました。自分のできる奉仕、祈りをしていきましょう。

 

2011/9/18

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝説教要約

2011年09月18日 | 説教要約

「主イエスに従う幸い」 マタイによる福音書10章21~28節

 父なる神の働きによってペテロが、「主イエスが生ける神の子キリストである」と告白したことを機に、主イエスはエルサレムに顔を向けたのでありました。

Ⅰ 主イエスの歩む道

 主イエスは、エルサレムで起こること、自らが十字架につけられ殺されること、三日目に復活されることを弟子達に語りました。それは、救い主イエスが、この世に来れられた使命(人間の救い)を、十字架と復活によって果たすためであります。人間の最大の問題は、「罪と死」であります。主イエスの十字架は、人間の罪を負い、人間が受けなければいけない神の裁きを人間の身代わりに受けることにより人間の罪に対する解決をなし、次に主イエスが復活されることによって死に対する勝利をなすからであります。しかし、ペテロはこの永遠の救いを理解できずに、主イエスをいさめた(強くしかる)のでありました。彼の間違ったこの世的なメシヤ観と人情的なものがそうさせたのでありましょう。けれども主イエスの道は、ペテロの思う道ではなく、十字架と復活への道でした。

Ⅱ 主イエスに従う者たちの歩み道

 そのペテロに対して主イエスは、「引き下がれ」と叱責したのでした。主イエスに従う弟子であるペテロの立ち位置は、主イエスの前ではなく、後ろであるのです。さらに主イエスは続けて言われました。主イエスに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って従うようにとのことです。「自分を捨てる」とは、きよめられた主体性でということです。我力(自らの考え、力)で従うのではありません。「十字架を負う」とは、自分に与えられている使命に生きることです。それこそ主イエスに従う者の歩む道です。

 主イエスのあとに、主イエスの背を見て従う者であらせていただきましょう。

2011/9/18 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2011年09月18日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする