「霊的な礼拝」
牧師家庭に育った私は、物心つくころから教会学校に出席していました。中学生になると一般の礼拝や祈祷会にも出ておりました。しかし、礼拝や祈祷会の参加には自ら進んでということではなく、親が言うのでしぶしぶという面がありました。ですから、礼拝や祈祷会に常習的に遅れて来たり、メッセージの途中に一度や二度、席を立っては、礼拝堂の外に出て一息いれるという感じで、いつも母に注意されていました。また、信仰告白の使徒信条や交読文など、声と心を合わせて会衆一同でささげるものを、自分は覚えていて早く言えると、一人突っ走っていました。今思うと恥ずかしさと申し訳なさを感じます。
礼拝とは真の神にささげる厳粛な行為であり、礼拝や祈祷会には霊の流れがあることについての私の認識が本当に薄かったのでした。神の前に出、神にささげる厳粛さ、霊の流れを途切れさせないように最善をもって礼拝に集いたいのです。
「それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ロマ12:2)
2011・6・19