静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2011年06月19日 | 説教要約

「信仰の祈り」 詩篇43篇1~5節

 この詩篇は42篇の続編とも言われているもので、不信仰の世にあって、神にある者がささげる信仰の戦いの祈りが歌われている。

Ⅰ 人生の試練

 42篇の背景と同様に、この詩人はエルサレムからヘルモン山麓に捕らえ移されています。そこで、神を恐れないよこしまな民のしえたげにあっています。その中で彼は、悲しみ歩き(2)、うなだれ思いみだれている(5)のです。彼にとっては大きな試練でありました。この詩人と同様わたしたちの人生の歩みにも、負い切れない試練が時に起こってきます。それは苦しいことです。この試練は何なのだろうかと思います。そして人間的な努力によってなんとかしようとしますが、どうにもならない事があります。そういう試練は、私たちが神の前にきて跪き祈ることによってしか、道が開かれないことを知ります。

Ⅱ 神への祈り

 この詩人は、そこで神に叫びます。わたしに臨んでください。わたしのこの出来事に介入してくださいと。神の御手によって、神の民が出エジプトをしたように、私を神の光とまことを送って導いてくださいと。祈りの中で彼は神に取り扱われていきます。そして、三度目の繰り返し「神を待ち望め」は、信仰の確かさを宣言することばになっているのです。

 私たちもどんな試練の中にあっても、神を待ち望む信仰をあらわし、祈りによってその試練を乗り越えさせていただきましょう。

2011・6・19 説教者 杉本守

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2011年06月19日 | 天のマナ

 「霊的な礼拝」

 

  牧師家庭に育った私は、物心つくころから教会学校に出席していました。中学生になると一般の礼拝や祈祷会にも出ておりました。しかし、礼拝や祈祷会の参加には自ら進んでということではなく、親が言うのでしぶしぶという面がありました。ですから、礼拝や祈祷会に常習的に遅れて来たり、メッセージの途中に一度や二度、席を立っては、礼拝堂の外に出て一息いれるという感じで、いつも母に注意されていました。また、信仰告白の使徒信条や交読文など、声と心を合わせて会衆一同でささげるものを、自分は覚えていて早く言えると、一人突っ走っていました。今思うと恥ずかしさと申し訳なさを感じます。

 

  礼拝とは真の神にささげる厳粛な行為であり、礼拝や祈祷会には霊の流れがあることについての私の認識が本当に薄かったのでした。神の前に出、神にささげる厳粛さ、霊の流れを途切れさせないように最善をもって礼拝に集いたいのです。

 

  「それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ロマ12:2)

  2011・6・19

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講壇の花

2011年06月19日 | 生花
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする