静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日説教要約

2010年09月19日 | 説教要約
「わたしは決して動かされない」詩篇30篇1~12節

 この詩篇は、ある重病の詩人が、その瀕死の病から癒やされた時の感謝の歌であります。
 後に、その内容から、個人的なことにも国家的なことにも用いられるようになりました。
この詩から共に主のみ言を聴きましょう。

Ⅰ 主を崇めほめたたえます
 詩人は、まず1~3節で癒やされたことの感謝を詩っています。その病は重く、沈みかかっていた死の世界から、神によって引き戻された感謝であります。詩人はその喜びを自らだけではなく、他の聖徒たちにも加わり、共に賛美をささげることを呼びかけています。「主の懲らしめはつかのまであり、神の祝福は永遠である」ことが詩われています。

Ⅱ 主をほめたたえる理由
 この詩人はどうして病になったのでしょうか。それが6節以降にあります。自分の不信仰の失敗を体験として告白しています。それは、彼の信仰が自己中心的なものになり、「わたしは決して動かされない」と告白しているのです。「主の恵みを自分のために限定し、自分が満足すればそれでよい」というものでした。ですから、主は懲らしめの意味で病を詩人を置かれました。

 主の恵みは、その者だけが満たされるだけではなく、あふれ出て隣人にも流れるものであります。恵みを分かち合うことが必要なのです。そこでこそ、本来の「わたしは決して動かされない」になるのです。詩人はそれに気づいたのです。

 わたし達は、主の恵みに慣れてしまい、油断してあぐらをかき、独り占めにしてしまってはないでしょうか。主の恵みも賛美も分かち合うお互いでありたいのです。

2010/9/19 説教者 杉本守
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天のマナ

2010年09月19日 | 天のマナ
「主語は神」

 先日の市内牧師会で、教えられたことを以下に記させていただきます。

 私達の人生の主語は、誰になっているでしょうか?

 創世記にでてきますヨセフがエジプトで総理大臣になったとき、幼かった自らを奴隷として売った兄弟達が目の前に来ました。その時、自らを抑えられなくなって自分の正体を明かします。そこでヨセフは自らの波乱万丈な人生を振り返って、何と言ったでしょうか。

 創世記45章に見ることができます。彼の語った言葉の主語は、「あなたがた」と兄弟ではなく、「わたしは」と自らでもなく、「神は」と神です。「あなたがたは」と兄弟に対し、また関わってきた人や環境や状況をあげて恨み辛みを言って責めたのではありません。また、「わたしは」と自らが受けてきた苦しみや痛みをぶちまけたのでもありません。

 それらのようにすることもできましたが、彼は、「神は」と何度も始め、「神は神の民の命を救うために、わたしを先にエジプトに遣わしたのです」と神の恵み深い摂理を語ったのでした。彼の人生の視点は、神の目でありました。ここに幸いと解決がありました。

 私達も人生にそして人生に起こる課題に対して、神の視点をもち、主語を「神」として捉えたいと願います。

 2010/9/19
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講壇の花

2010年09月19日 | 生花
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