静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2010年01月24日 | 説教要約
「神を信じる者は動かされない」 詩篇16篇1~11節

 この詩人は、神の臨在の恵みに生きた者であります。

Ⅰ 神の臨在を信じる聖徒
 この詩人は、ダビデであろうと言われていますが、彼は神に対する信仰告白をしています。「あなたはわたしの主」「あなたのほかに幸いはない」とです。そして、偶像の神を拝む愚かさを語り、自らは真の神を自分の前に置いたと告白しています。
 「置いた」は完了形で、決断的な自覚によるものであります。以前はダビデの前にあったのは欲望でしたが、今はそうではない、主なる神がおられるのです。主の臨在こそが、人間の魂の最深の要求を満たすことができるのです。

Ⅱ 動かされない聖徒
 人生には揺るされる出来事が起こりますが、主を自らの前に置く者は、決して動かれることはないのです。ダビデもそうでありましたし、パウロも法廷で福音を伝えた時、一人でありましたが、主が右におられたので平安でありました。「右」とは、当時の弁護者の立つ位置であり、競技における勝利者の位置であります。主が、パウロの弁護人であり、勝利者として立たれていたのです。

 あなたは何を、誰を自らの前に置いているのでしょうか?臨在の主を置くのです。

2010/1/24 説教者 杉本守 
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天のマナ

2010年01月24日 | 天のマナ
「ゆるされていく過程(謝罪と償い)」 
 
 小学生頃に毎日のように公園で野球をしていました。ある時、私の打ったボールが草むらへ飛んでいき、みんなで探しても見つかりません。野球は中断し、ボールを持ってきてくれた友達からは、弁償をするように言われ、私はへこみました。「悪かった」と謝るだけではなく、家に帰って親に事情を話し、お金をもらい店に買いに行き、ボールを買い弁償して、野球は再開しました。これらの過程を踏んで、私はゆるされ、信頼を回復される貴重な経験をしたのでした。これは私の人格形成において、非常に大切な欠かせない出来事でありました。

 私達は失敗や過ちをし、時には人を失望させ、自らをも失望させる弱い者であります。故意にしたことでなくても、ゆるされていく過程を踏み、ゆるしと信頼の回復を得る必要があるのです。謝罪すれば償いはしなくてよいのではなく、償いをすれば謝罪は必要でないのではなく、本当のゆるしを得るためには、「謝罪と償い」の両方が必要であります。

 なぜ、神に対する私達の罪は謝罪するだけで赦されるのでしょうか。それは、払いきれない罪の代価(償い)を、すでに救い主イエスが十字架の上で払ってくださったがゆえであります。本当にこの神の犠牲の愛を知った者は、罪から離れて行くのです。

2010/1/24
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講壇の花

2010年01月24日 | 生花
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