静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2008年07月06日 | 説教要約
「神から出たもの」 使徒行伝5章33~42節

 使徒達は宣教したことによって、迫害を受け、また留置所に入れられてしまいました。この箇所より、主の言葉をいただきましょう。

Ⅰ 語り続けなさい
 留置所の中にいた使徒達に、神はみ使いを遣わして彼らを解放し、「宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」と力づけます。彼らは宮で語り続けました。そうした彼らを大祭司達は捕らえ、議会に立たせました。「イエスの名で語っていけない」と言った大祭司達に、使徒達は、「人間に従うよりは神に従うべきである」と応え、福音を宣べ伝えることの継続を主張しました。

Ⅱ 主イエスの名のゆえに
 議会は、弟子達を殺そうとしましたが、議員の一人であるガマリエルが、一つの提案をいたしました。それは、「この一連の出来事は、神から出たものなのか、人から出たものなのかをよく吟味して判断するべきである」ということでした。人からなら、一時的で消滅するであろう。しかし、神から出たものならば、この出来事に反対すれば、神に反することになるからです。
 議会は、彼の提案を受け入れ、使徒達を鞭打ち、脅した上、解放いたしました。
使徒達は、イエスの名のゆえに迫害されたことを喜び、さらにこの福音を宣べ伝えていきました。

 どんな迫害の中にあっても、神から出たものはしぼむどころか、いよいよ光り輝くのです。この福音は神から出たもので、人々を救い続けています。

2008/7/6 説教者 杉本守
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天のマナ

2008年07月06日 | 天のマナ
「律法と私達」    

 ある教会では、十戒を礼拝の中で毎回、会衆全員で告白しています。主イエスは旧約聖書の預言と律法を成就されるために来られ(マタイ5章17節)、十字架において旧約を成就し、新約を結ばれたのでした。ですから、私達は、旧い契約(律法を守る行いによる救い)ではなく、新しい契約(イエスを救い主と信じる信仰による救い)に生きています。

 それでは、律法は無意味、不必要になったかと言うとそうではありません。律法がなければ私達は自分が罪人だということがわかりませんし(ガラテヤ3:22、ロマ3:20)、罪が示されなければ救いを求めなくなります。また、律法がなければ私達は具体的にどのように歩んで良いのかわかりません。

 主イエスは、律法全体と預言者(旧約を代表するもの)は、「神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」にかかっていると言われました。「神を愛すること」とは、具体的に十戒の第一~第四戒です。「隣人を愛すること」とは、第五~第十戒として具体的に示されています。

 また、ささげ物についてもそうです。10分の1のささげ物は、旧約全体を貫いている律法です。これも主イエスは成就されました。新約においては、私達の全ては主のものであり全部をささげることです(ロマ12:1 体とは肉体ではなく、すべてという意味)。「全ては主のものです」という信仰を私達は、どのようにあらわすのでしょうか。それは、「10分の1」です。でもこの10分の1はもはや戒めではなく、救われた喜びとして、自発的な具体的なものです。具体的な基準が必要なのです。自分のものとすぐに勘違いする私達には。

2008/7/6 
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講壇の花

2008年07月06日 | 生花

掲載者:岩崎

 

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