静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2014年09月21日 | 説教要約
「聖霊なる神に満たされる喜びと平安」(使徒行伝19章1~7節) 

「そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。」 (使徒行伝19章6節)

 第三伝道旅行が使徒行伝18:23~始まり、パウロはエペソの地にいました。そこでアポロによって導かれた12名のものたちと出会いました。

Ⅰ 聖霊による満たし
 雄弁で主の道に通じており霊に燃えていたアポロとその弟子たちでありましたが、ヨハネのバブテスマ(悔い改めて救い主を待ち望むもの)しか知りませんでした。そこでプリスキラとアクラがアポロに語りました。また、パウロはその12弟子に、イエスの名によるバブテスマ(義認、神の子とされる、新生)を授けました。さらに、パウロが彼らの上に手を置くと彼らに聖霊がくだり、聖霊の賜物を受けたのでした。

Ⅱ 聖霊の満たしのよるきよめ
 聖霊が彼らにくだった時、ここで彼らが受けた賜物は、異言と預言でありました。第一コリント12~14章には、多くの聖霊による賜物が記されています。その中でも欠かしてはいけない賜物は愛であります。この愛は、きよめを受けなければ得られません。聖霊の火の中を自我が通されなければ、全き愛はわいてきません。聖霊を受けるとは、きよめられるということであります。彼らは、きよめられ賜物を用いていきました。

 わたしたちは聖霊を受け、聖霊に満たされ続けているだろうか。聖霊によって今日も心を満たされ、喜びと平安をもって歩んでいきましょう。

2014・9・21 説教者 杉本守

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主日礼拝説教要約

2014年09月14日 | 説教要約
「人生の土台を変わらない神に置く」(詩篇102篇12~28節)

「しかし、あなたは変わることなく、あなたのよわいは終わることがありません。」(詩篇102篇27節)

 バビロン捕囚の地で、祖国、シオンの債権を願う詩人の思いが描かれています。

Ⅰ 代々に至る永遠の神
 詩人は悩みの中にありました。それは祖国の回復を願いながらも、時は過ぎ自らは弱っていくのです。もしかしたら、その日を見れないからもしれないとの思いです。そこで、彼は自分は過ぎ去るものだけれども、神は永遠の方であり、その名はよろず代に及び必ず神の栄光をあらわして下さるとの祈りが続きます。

Ⅱ この神を人生の土台にする

 わたしたちは、自分がすべて見なければ気が済まないということがないでしょうか。彼は、自分の時にこだわりませんでした。主の栄光を次の世代が見ることができるように、この神の真実の約束を書きしるし告白し続けますとの祈りをしました。この信仰は、彼が信じていた神は変わらずに約束をなす方であり、彼はその神を人生の土台にしていたのであります。

 わたしたちは、主の真実な約束を信じて、どんな時も祈りと宣教をやめてはいけないのです。継続していく時に、自らも子孫も主のわざを見ることができるからです。

2014.9.14 説教者 杉本守

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主日礼拝説教要約

2014年09月07日 | 説教要約
「キリストに仕える同労者の輝き」(使徒行伝18章1~11節)

「彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首さえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝している。」(ローマ人への手紙16章4節)

 シラスをピリピにテモテをテサロニケに遣わしたパウロは、アテネでの伝道を終えコリントにきました。

Ⅰ 主の器の意気消沈
 アテネでの宣教の成果が期待通りでなかったので、。¥Ⅰコリント2:3にもあるようにパウロは意気消沈していました。アテネでの結果は、次の宣教への意欲を駆り立てるものではなかったのでした。大宣教をしている主の器であるパウロも時には弱さを感じていたのです。

Ⅱ 主の器を支えた同労者
 そんなパウロを支えるように、主はプリスキラとアクラをローマから不思議な方法をもって呼び出したのです。彼らは、パウロと共に天幕造りをしながら、パウロを支えました。そして主は、シラスとテモテを良き報告とともに戻し、パウロはフルタイム伝道をするようになりました。さらに主は、御言葉をもって彼を励まします。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。」と。パウロらは一年六か月福音を伝えました。

 信仰生涯や伝道生涯、意気消沈することもありますが、同労者としてお互いを支え合い、主の御言葉に立ち宣教し続けていきましょう。

2014.9.7 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2014年08月31日 | 説教要約
「こころの貧しい人たちは幸いである」(マタイによる福音書5章1~3節)

「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」(3)

 今朝は伝道礼拝です。新しい方と求道者の方々を特に歓迎します。
 聖書はおもしろいことを言います。「心の貧しい人がさいわい」というのです。ここでの「貧しい」は、極貧です。その日の食べ物がなくて生きていけない状態です。ということは、自分の心には愛がなく自己中心で、罪深く、このままでは生きていけないという状態です。それを自分で認めているということです。
 自分を知り認めるということは一番難しいことです。しかし、それが救いの第一歩となります。なぜなら、そういう者は、神に救いを求めるからです。神は救いを求めてくるものをほっておきません。救いを与えるのです。ここでは「天国は彼らのものである」と言われています。天国は将来のことだけではなく、今のことでもあります。それは神の救いを得たものは、神とのあふれるいのちの関係が回復し、神の祝福が流れ込み、天国の幸いを先取りすることができるのです。なんて幸いでしょう!

 あなたも自分の心の貧しさを認め、主イエスを救い主と信じ、天国の祝福を先取りする者となってください。

2014/8/31 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2014年08月24日 | 説教要約
 「神によって心をきよくされる」詩篇101篇1~8節  
「わたしは全き道に心をとめます。あなたはいつ、わたしに来られるでしょうか。わたしは直き心をもって、わが家のうちを歩みます。」(2)

 ダビデの讃歌であり、おそらくダビデが王位についた初期のものであるだろうといわれています。国を正しく治める王として、まず自分自身が、家庭が、国家が次のようでありたいとの祈りが込められています。

Ⅰ 神と共にあゆむことによって心きよくある
 「全き道に心をとめます」「直き心をもって、わが家のうちを歩みます」とあります。彼は、倫理的道徳的以上に、神との関係においてきよくありたいと願っています。神と自分との間に何も置かず、まっすぐであることであります。自分の心がきよくされていく時、家も、国家も主の臨在の場となるでしょう。


Ⅱ 罪から離れることによって心きよくある 
 「目の前に卑しいことを置きません」(3)とあります。罪の誘惑になるようなことを目の前に置かないということです。それだけではありません。誘惑する者たちから距離をとるということです。世に置かれ生かされているクリスチャンですが、世に浸かってしまうのではなく、しっかり境界線を設けるべきです。さらに、クリスチャンの交わりの中に身を置くのです。礼拝はもちろん、祈祷会、小グループなどに積極的に出るのです。常に主を目の前において、罪から離れきよくあり続けることです。

 「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉に従って、それを守るよりほかありません。」(詩篇119:9)

 2014/8/24 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2014年08月17日 | 説教要約
「神のうちに生かされている人間」使徒行伝17章22~34節

 「事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」(27,28)

 大自然を前にすると人は、その大自然に圧倒されます。その大自然の背後に何かがある、誰かがいると人は感じます。どの国にもどの時代にも、人は神を求める宗教心があります。その理由は、人は神により霊的存在として造られているからであり、創造者なる霊なる神を求めるからです。しかし、神から離れ罪の中にある人間は、真の神がわからず、ある者はその大自然を神だと思い拝み、ほかの者は大自然に神の霊が宿っていると拝みます。しかし、それらは神ではなく、神が造られたものにすぎず、神の栄光をあらわしているに過ぎません。それらの被造物を拝するのではなく、それらを造られた神を拝するべきであります。

 パウロはアテネにいました。多くの偶像が神としてまつられアテネの人々によって拝まれていましたが、彼らのうちに確信と平安がありませんでした。どれかは当たるだろう、しかし、当たらなかったらまずいので、まだ知られていない神という神まで拝んでいたのです。正しい神がわからず迷っていました。そこで真の神を知っていたパウロは、神は唯一であり、この真の神は天地創造の神であり、イエス・キリストによってすでに救いをなしたと語りました。受け入れ信じた者もいましたが、二元論の自分の考えを優先しへりくだることをしなかった者たちは受け入れず救われませんでした。

 真の神は、今あなたに自らを語っています。へりくだり真の神を受け入れ救われましょう。

 2014.8.17 説教者 杉本守

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主日礼拝説教要約

2014年08月10日 | 説教要約
「われらは主なる神のものである」 詩篇100篇1~5節

 「主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。」(詩篇100篇3節)

 この詩篇は礼拝への招詞として、今では礼拝式の最初に毎回読まれているものであります。主が礼拝に招いてくださっていることはなんと幸いでしょうか。この詩篇は、捕囚解放後に書かれたものと言われています。

Ⅰ 主の恵みによる礼拝への招き
 主なる神は、私たちを礼拝に招いておられますが、どのような思いをもって礼拝に来なさいと言っているのでしょうか。それは、喜ばしく声をあげ、歌いつつ来なさいということです。私たちは今朝、台風の中、どのような気持ちで主の前に来たでしょうか?神の民は、出エジプトの恵み、出バビロンの大いなる恵みを振り返りながら、礼拝をささげました。

Ⅱ 主の恵みによる礼拝での恵み
 われらは主のもので、われらは主の民、その牧の羊であります。こんな私たちを主は、自らの所有としてくださり、主は責任をもって養っていて下さるのです。霊的恵みはもちろん、私たちが信仰者として歩んでいく生涯のすべての必要を満たして下さっているのです。

 私たちは毎週礼拝に招かれています。自らの救いを感謝しながら、主の恵みの奥へ入れていただきましょう。

2014/8/10 説教者 杉本守
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主日礼拝説教要約

2014年08月03日 | 説教要約
「どんな状況にも勝利する信仰」使徒行伝16章19~34節
「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」(25説)

 この箇所は、第二伝道旅行のピリピの町での出来事です。

Ⅰ 信仰の歩みにおける困難
 祈りの場に行く途中でパウロとシラスは、占いの霊につかれた女奴隷から占いの霊を追い出し、彼女を解放し正気に戻してあげました。しかし、この故に彼らは鞭打たれ足かせを付けられて牢獄へ入れられてしまいます。神のみ心に従いマケドニヤにきて、宣教のわざをしている二人ですが、なんとその故に迫害に遭うのです。信仰の歩みは平坦ではありません。戦いがあるのです。

Ⅱ 困難の中で輝く真の信仰
 鞭での傷の痛みは激しく、足かせによる締め付け、暗く不衛生な牢獄、周りの囚人たちの言葉、御心に従ってきたのになぜとの戸惑いによって、彼らの信仰は輝きを失い、状況に支配されてしまったでしょうか。いいえ、彼らはその獄中で神に祈り賛美を歌い続けていたのでした。彼らの信仰はますます輝き、その状況を支配し、獄吏をはじめ囚人に福音を伝えていたのでした。
 その信仰に応えるように、神は大いなるわざをなされます。大地震と獄吏と獄吏の家族の救いであります。

 仕事場でも家族でも一人クリスチャンの方もいらっしゃるでしょう。状況は厳しいかもしれません。しかし、私たちはこの二人がもっていた同じ信仰を持たせていただいています。主によってその信仰を輝かせていただきましょう。主は大いなることをなされます。

2014/8/3 説教者 杉本守
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主日礼拝礼拝説教要約

2014年07月27日 | 説教要約
「真実な神の栄光をあらわす」(詩篇96篇1~13節)

 「もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。」(3節)

 わたしたちは神の栄光をあらわすのにどうしたらよいのでしょうか。それは、神を賛美し礼拝し、神を伝えることです。この詩篇は、バビロンからの解放という主のみわざを経験した神の民が、神を賛美し礼拝する詩であります。

Ⅰ 神への賛美
 なぜ、人は神をほめたたえるのでしゅうか。一つ目は、神が救い(2)を、くすしきみわざ(3)をなされたからであります。具体的には、バビロンからの解放であります。今の私たちにとっては、罪からの救いであります。二つ目は、神が天地を造られたからであります(5)。神への賛美は、神の民にとどまらず、神の民によって全地(1)、もろもろの民(7)に伝えられ、すべての造られた人々がささげるものであります。

Ⅱ 神への礼拝
 8~9節には、神の前に出て神を礼拝することがうたわれています。聖なる装いをして主を拝し、供え物をもって御前に行くのです。外装以上に内なる心の聖なる装いを忘れてはいけません。そして、主の来られるのを待ち望むのであります。それは、臨在ということであり、また今の私たちにとっては、再臨ということでもあります(13)。再臨は、私たちにとっては楽しみであり喜びであります。神の国での礼拝とはどんなに幸いでしょう。

 主を礼拝し、主に賛美をささげ、主が自らに成して下さった救いを喜んで伝えて行きましょう。そうする時に主の栄光があらわれるのです。

2014・7・27 説教者 杉本守
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主日説教要約

2014年07月20日 | 説教要約
「全能の神の導きに従う喜び」 使徒行伝16章6~18節 

「パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。」(10)

 伝道チームは二チームとなり、今後は、パウロとシラスのチームに焦点をあてられ記されています。第二伝道旅行(AD49~51)がスタートし、各教会(シリヤとキリキア地方、デルベ、ルステラ)を励まし力づけながら、進められています。このルステラでテモテが加わります。

Ⅰ 全能の神の導き
 伝道の行先についてパウロらは計画をもっていました。まずは西方のアジア州へ、しかし聖霊がその道を閉ざします。続いてパウロらは北方のビテニアへ、しかしこれも閉ざされます。困惑したでありましょうが、彼らは何が何でも分たちの計画を遂行する(我を通す)というのではなく、神の導きを仰ぎながら伝道するのです。トロアスにいた時、幻の内に神の御心を示されるのであります。「マケドニヤに渡ってきて、私たちを助けてください」というマケドニヤ人の叫びです。この「世の叫び」を通して神の御心を知ったのであります。

Ⅱ 神の導きに従う
 パウロらは、マケドニヤにわたることが、神のみ心と確信しました(10)。この「確信」という言葉は、「いっしょに結び合わせる」、諸般の出来事を結び合わせて決断するという内容の語であります。今までの神の導き、神の言葉、そして、同伴者(シラス、テモテ、ルカ)の同意、これらのことを合わせて確信に至り、従ったのでありました。

 私たちも神の御心を知り確信したいと願っています。そしてそれに従う時に喜びを感じます。御言葉と導きと賛同をいただきながら、確信による平安をもってクリスチャン生涯を歩んでいきましょう。

2014・7・20 説教者 杉本守

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