5月19日(月)
明石の私の部屋、JRの最寄り駅は明石駅の一つ手前の朝霧駅です。年明けまで「明石市大蔵谷清水」という町名だったのですが、今年になって住居表示が変わり、「明石市朝霧南町」になりました。
私の部屋から朝霧駅と反対方向へ歩くと、山陽電鉄の大蔵谷駅があって、そのちょっと先にKAZU君の保育園があります。
何回か紹介しましたが、保育園の辺りは、かつての西国街道の兵庫と加古川の宿の中間にある大蔵谷の宿場町で、今でも風情のある町並みが色濃く残って、その名残を留めています。
毎年秋に行われる大蔵谷稲爪神社大祭での
「牛乗りの神事」
何回かブログに載せた神事ですが、牛に乗った子どもが大声で口上を述べます。
「千年も万年も、大蔵谷の浦において、千と万と、大祝い小祝いつづき候」
この地域一帯の繁栄と泰平を言祝ぐものですが、この神事は、推古天皇の御世に創建されたというお社の縁起を伝える儀式で、大蔵谷の古い歴史を物語っています。
そんなこともあって、個人的には「大蔵谷」という地名が気に入っていたので、少々複雑な気分です。
実は、KAZU君の住まいも私の所と同じ「朝霧南町」に変わったのですが、今までの「大蔵谷狩口」という町名の「狩口」という字名、これにもなかなかの由緒が言い伝えられているのです。
神代の時代に、仲哀天皇という方がいらっしゃったことになっています。奥様が神功皇后で、応神天皇の父ということになります。その仲哀天皇の二人の皇子がこの付近の山で鹿狩りをした、その山の入り口ということで「狩口」と言うそうなのです。
歴史の本をひもとくと、応神天皇には二人の異母兄がいて、幼い異母弟の即位を阻もうと、神功皇后の三韓征伐の帰途を狙って反乱をおこしたことになっています。史実かどうかは疑わしいところですが、これを世に「忍熊皇子の乱」と言って、最初に陣を構えたのが播磨の赤石(明石)と言われています。この時に、神戸は灘の都賀川の辺りで占いの狩りをしたことにもなっているので、その辺の言い伝えが「狩口」の由来になっているのかもしれません。
なにはともあれ、そんな歴史とロマンを感じていた地名が、いつの間にかJRの駅名と同じ名前に変わってしまったのです。
いにしへも朝霧の中に隠れけり 弁人
ところで、新しい地名の「朝霧南町」、大蔵谷宿場の北東に位置するこの辺りは、昭和40年ごろから住宅地が整備されたようで、JRの朝霧駅は昭和43年の開業となっています。なにしろ、山陽本線は明治生まれの歴史の古い幹線ですから、駅の中では歴史が浅いということになります。
聞くところによると、今回の町名変更に当たっては、住民のアンケートの結果が重視されたということです。たしかに、「朝霧」という名前には、いかにも今ふうな、新鮮かつしっとりとしたイメージがありますよね。
さて、やっと今日の本題に近づいてきました。ここまでは、「大蔵谷」とか「狩口」とかの地名が消えて寂しいという話題で、それは正直な思いなのですが、だからといって、朝霧駅の「朝霧」という名前が、「歴史が浅く重々しくない」ということではないのです。
たしかに、駅の歴史は浅い、でも「朝霧」という地名も、実はどっこい、ちゃんとした歴史を背負っていて、「朝霧駅」という駅名には、親しみと愛着を持って明石暮らしを続けているのです。
KAZU君の家から北へ歩くと、丘の上に朝霧公園があります。今は公園の前に団地が並んでいますが、もともとは明石海峡を目の前にした景勝の地であったと容易に想像できます。
公園の一角に、地名の由来を紹介する
石碑があります
「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」
古今和歌集巻九のよみ人しらずの歌ですが、左注には「このうたは、あるひとのいはく、柿本人麿がうたなり」とあって、明石にゆかりのある人麻呂の作として親しんでいる人も多い歌です。
昔の、またその昔から、明石海峡は朝霧に包まれることが多かったのでしょう。おそらく、地形的な特質、かつ湿度や気温などの気候的な特質によるものだと思います。「霧」と言うと、季節的には秋から初冬をを思い浮かべますが、私の印象では、3月から4月ごろに多いような気がします。
実は、三日前の先週の金曜日の朝も淡路島が全く見えませんでした。その日もカメラを構えたのですが、朝霧がもっと深く立ち込めた日が3月末にありましたので、今回はその時の写真を。
ベランダの前。すぐ下に
電車が走っています
表に出て、
坂道を上がると
すぐ眼下に朝霧駅があり、その向こうは海岸の公園です。それが全く隠れているのですから、海峡や淡路島などは論外です。
この新しい公園も、
ふだんは景色抜群なのですが
さすがに、明石市朝霧。まさに地名どおりの光景です。年に何回くらいあるでしょうか、おそらく、雨上がりなどで湿度が高く、風が無く、明け方に気温が下がったからだと思います。
なにもかも霧に隠るる春の朝 弁人
考えてみると、今まで何回か、2から3月頃のブログの話題に、「明石は気温が低めで、春が待ち遠しい」などとぼやいたことがあります。
狭い日本、それも同じ関西地方で、同じ海に面しているのに、大阪や神戸に比べると、明石は年間を通じて2~3度ほど気温が低いようなのです。
これは霧の朝とは関係ありませんが、「明日は暑くなりますよ」というコメント付きの、
先週の月曜日(5月12日)の
夕方の天気予報です
翌日の最高気温の予想画面ですが、関西地方の画面では、大阪も神戸も姫路もそんなに変わらないのに、兵庫県各地域の予報では、明石は2~3度ほど低くなっています。
実際、翌13日の最高気温はどうだったかというと、予報どおりに暑くはなりませんでしたが、やはり明石は2~3度低いのです。
大阪24.9度 神戸24.9度
明石22.3度 姫路25.2度
最低気温でも同じような傾向があるので、どうも明石海峡近辺だけ周囲に比べて気温が低くなり、それで朝霧が発生しやすくなるのかもしれません。そのうち神戸の気象台にでも出向いて、そのへんのことを勉強してみたいと思っています。
それに、朝霧名物?の朝の霧、雨の日は上空がどんよりとした雲に覆われますが、雨粒とともに霧の水分も落ちてしまうのでしょう、まず霧は発生しません。
カメラに納めた霧の朝は3月末のことでしたが、
海はほとんど見えないものの、
明るさは感じます
振り返ると、
ちゃんとお日さまは出ているのです
でも、いくら霧が深くても、春たけなわのころですから、部屋に戻るころには晴れ渡って、いい天気になりそうかなと思いきや、この日はなかなかしぶとくて、
用があって
KAZU君のおうちに行きました
9時近くになっているのに、ベランダから全く海が見えません。
ちなみに、この日は3月下旬でしたが、当日の明石の気象状況は、
天候 晴一時曇 降水量 0ミリ
朝の最低気温 12.0度 (神戸13.8度)
ということでした。
海峡に冷気漂ふつぼありや 弁人
明石の私の部屋、JRの最寄り駅は明石駅の一つ手前の朝霧駅です。年明けまで「明石市大蔵谷清水」という町名だったのですが、今年になって住居表示が変わり、「明石市朝霧南町」になりました。
私の部屋から朝霧駅と反対方向へ歩くと、山陽電鉄の大蔵谷駅があって、そのちょっと先にKAZU君の保育園があります。
何回か紹介しましたが、保育園の辺りは、かつての西国街道の兵庫と加古川の宿の中間にある大蔵谷の宿場町で、今でも風情のある町並みが色濃く残って、その名残を留めています。
毎年秋に行われる大蔵谷稲爪神社大祭での
「牛乗りの神事」
何回かブログに載せた神事ですが、牛に乗った子どもが大声で口上を述べます。
「千年も万年も、大蔵谷の浦において、千と万と、大祝い小祝いつづき候」
この地域一帯の繁栄と泰平を言祝ぐものですが、この神事は、推古天皇の御世に創建されたというお社の縁起を伝える儀式で、大蔵谷の古い歴史を物語っています。
そんなこともあって、個人的には「大蔵谷」という地名が気に入っていたので、少々複雑な気分です。
実は、KAZU君の住まいも私の所と同じ「朝霧南町」に変わったのですが、今までの「大蔵谷狩口」という町名の「狩口」という字名、これにもなかなかの由緒が言い伝えられているのです。
神代の時代に、仲哀天皇という方がいらっしゃったことになっています。奥様が神功皇后で、応神天皇の父ということになります。その仲哀天皇の二人の皇子がこの付近の山で鹿狩りをした、その山の入り口ということで「狩口」と言うそうなのです。
歴史の本をひもとくと、応神天皇には二人の異母兄がいて、幼い異母弟の即位を阻もうと、神功皇后の三韓征伐の帰途を狙って反乱をおこしたことになっています。史実かどうかは疑わしいところですが、これを世に「忍熊皇子の乱」と言って、最初に陣を構えたのが播磨の赤石(明石)と言われています。この時に、神戸は灘の都賀川の辺りで占いの狩りをしたことにもなっているので、その辺の言い伝えが「狩口」の由来になっているのかもしれません。
なにはともあれ、そんな歴史とロマンを感じていた地名が、いつの間にかJRの駅名と同じ名前に変わってしまったのです。
いにしへも朝霧の中に隠れけり 弁人
ところで、新しい地名の「朝霧南町」、大蔵谷宿場の北東に位置するこの辺りは、昭和40年ごろから住宅地が整備されたようで、JRの朝霧駅は昭和43年の開業となっています。なにしろ、山陽本線は明治生まれの歴史の古い幹線ですから、駅の中では歴史が浅いということになります。
聞くところによると、今回の町名変更に当たっては、住民のアンケートの結果が重視されたということです。たしかに、「朝霧」という名前には、いかにも今ふうな、新鮮かつしっとりとしたイメージがありますよね。
さて、やっと今日の本題に近づいてきました。ここまでは、「大蔵谷」とか「狩口」とかの地名が消えて寂しいという話題で、それは正直な思いなのですが、だからといって、朝霧駅の「朝霧」という名前が、「歴史が浅く重々しくない」ということではないのです。
たしかに、駅の歴史は浅い、でも「朝霧」という地名も、実はどっこい、ちゃんとした歴史を背負っていて、「朝霧駅」という駅名には、親しみと愛着を持って明石暮らしを続けているのです。
KAZU君の家から北へ歩くと、丘の上に朝霧公園があります。今は公園の前に団地が並んでいますが、もともとは明石海峡を目の前にした景勝の地であったと容易に想像できます。
公園の一角に、地名の由来を紹介する
石碑があります
「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」
古今和歌集巻九のよみ人しらずの歌ですが、左注には「このうたは、あるひとのいはく、柿本人麿がうたなり」とあって、明石にゆかりのある人麻呂の作として親しんでいる人も多い歌です。
昔の、またその昔から、明石海峡は朝霧に包まれることが多かったのでしょう。おそらく、地形的な特質、かつ湿度や気温などの気候的な特質によるものだと思います。「霧」と言うと、季節的には秋から初冬をを思い浮かべますが、私の印象では、3月から4月ごろに多いような気がします。
実は、三日前の先週の金曜日の朝も淡路島が全く見えませんでした。その日もカメラを構えたのですが、朝霧がもっと深く立ち込めた日が3月末にありましたので、今回はその時の写真を。
ベランダの前。すぐ下に
電車が走っています
表に出て、
坂道を上がると
すぐ眼下に朝霧駅があり、その向こうは海岸の公園です。それが全く隠れているのですから、海峡や淡路島などは論外です。
この新しい公園も、
ふだんは景色抜群なのですが
さすがに、明石市朝霧。まさに地名どおりの光景です。年に何回くらいあるでしょうか、おそらく、雨上がりなどで湿度が高く、風が無く、明け方に気温が下がったからだと思います。
なにもかも霧に隠るる春の朝 弁人
考えてみると、今まで何回か、2から3月頃のブログの話題に、「明石は気温が低めで、春が待ち遠しい」などとぼやいたことがあります。
狭い日本、それも同じ関西地方で、同じ海に面しているのに、大阪や神戸に比べると、明石は年間を通じて2~3度ほど気温が低いようなのです。
これは霧の朝とは関係ありませんが、「明日は暑くなりますよ」というコメント付きの、
先週の月曜日(5月12日)の
夕方の天気予報です
翌日の最高気温の予想画面ですが、関西地方の画面では、大阪も神戸も姫路もそんなに変わらないのに、兵庫県各地域の予報では、明石は2~3度ほど低くなっています。
実際、翌13日の最高気温はどうだったかというと、予報どおりに暑くはなりませんでしたが、やはり明石は2~3度低いのです。
大阪24.9度 神戸24.9度
明石22.3度 姫路25.2度
最低気温でも同じような傾向があるので、どうも明石海峡近辺だけ周囲に比べて気温が低くなり、それで朝霧が発生しやすくなるのかもしれません。そのうち神戸の気象台にでも出向いて、そのへんのことを勉強してみたいと思っています。
それに、朝霧名物?の朝の霧、雨の日は上空がどんよりとした雲に覆われますが、雨粒とともに霧の水分も落ちてしまうのでしょう、まず霧は発生しません。
カメラに納めた霧の朝は3月末のことでしたが、
海はほとんど見えないものの、
明るさは感じます
振り返ると、
ちゃんとお日さまは出ているのです
でも、いくら霧が深くても、春たけなわのころですから、部屋に戻るころには晴れ渡って、いい天気になりそうかなと思いきや、この日はなかなかしぶとくて、
用があって
KAZU君のおうちに行きました
9時近くになっているのに、ベランダから全く海が見えません。
ちなみに、この日は3月下旬でしたが、当日の明石の気象状況は、
天候 晴一時曇 降水量 0ミリ
朝の最低気温 12.0度 (神戸13.8度)
ということでした。
海峡に冷気漂ふつぼありや 弁人