カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

オーラの泉のこと

2006-02-23 13:33:11 | Weblog
《星が生まれて消えるまで》ブログ
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オーラの泉 柏木由紀子さんの回
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雑記メモ:永田先生のうたのこと、列聖調査のことなど

2006-02-23 10:18:09 | Weblog
永田和宏歌集『百万遍界隈』(青磁社)のことなど。

 今朝、数日来枕頭に置いたままにしていた永田先生の歌集『百万遍界隈』を開くと、まず目に飛び込んで来たのは「天狗舞」のうたでした。

天狗舞は金沢の酒降る雪のさやさやと唇(くち)に触るる辛口 永田和宏

 天狗舞という日本酒のコマーシャルのようなうたです。そのままラジオコマーシャルになりそうです。面白い一首。

 次いで、その隣りのページに見えた《茂吉の墓》の連作から。

右大臣大久保公の碑のまえに茂吉之墓と小さく記す 永田和宏

夫(つま)の死後三十年を楽しみて生きし輝子にその墓あらず 永田和宏

                *

<実りのとき 都立青山霊園>のサイト
http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/shuukyou/aoyamaboti/aoyamaboti.html

《都立青山霊園の齋藤茂吉の墓》
 大久保利通の巨大な墓に隠れるように、歌人齋藤茂吉の墓がありました。何度も探し直してやっとみつけることができました。
 子規の弟子伊藤左千夫に入門、左千夫が明治41年歌誌アララギを創設した以降、ともにアララギで積極的に活動しました。
 齋藤茂吉はクリスチャンであったと聞いたことがありますが、葬儀は築地本願寺で行なわれたそうです。

                *

 永田先生のうたにある「輝子にその墓あらず」は文字通り<輝子にその墓はない>ということ、つまり、「茂吉之墓」に輝子夫人は一緒に入っていないという意味だと思います。

 そう考えたとき、ふと、府中の多磨霊園の傍らの齋藤病院(茂吉の子息齋藤茂太氏の病院)のごく近く、<府中カトリック墓地>にある遠藤周作氏の墓のことが思い浮かびました。

*府中カトリック墓地(東京都府中市天神町4-13-1 Tel.042-369-6261):多麿霊園西門を出て、浅間山通りを西へ900m行き、左側です。

 この墓には遠藤周作氏と遠藤氏の母と兄とが一緒に眠っているそうなのですが、さきほどの「茂吉之墓」のうたの「その墓あらず」と遠藤氏の墓とは対照的だと思ったのです。

                *

 永田先生のうたからもう一首。

 惹かれるうたです。

母を知らぬわれに母無き五十年湖(うみ)に降る雪ふりながら消ゆ 永田和宏

                ☆

 列聖調査。

 興味深いカトリックの列聖調査の話。

 メモ。

<森の教会>のサイト
http://www12.ocn.ne.jp/~orchid/KyoukaiTOP.html

◆チマッティ神父の列聖調査◆
 ここで現在、聖人に挙げるべき調査活動をしている一人の事例を参考に紹介します。その方はまだ列福にまで至っていませんが多くの長い調査を経て、列福、列聖を待っている段階です。この様子を少しでも知っていただければ幸いです。その方の名はチマッティ神父です。
 神父はサレジオ会の神父として長く日本に滞在し、日本で帰天しました。(カトリックでは死亡することを天国に召された、帰った、という意味で「帰天」という言葉を使います)
 次の調査経過文は東京調布市にあるサレジオ神学院の資料からの抜粋ですが、多少手を加えてあります。
 師 (カトリックでは神父のことを「師」と表現します。たとえば、山田神父は山田氏ではなく「山田師」と表現します) の死後、とくにイタリアや日本は、その列福・列聖調査を始めるべきだという要請が強くなってきました。
 1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成したとき、チマッティ神父のご遺体は、棺を開けないままで、府中カトリック墓地からその地下聖堂に移されました。 師の列福・列聖調査を始めるべきだという要請が強かったのは、師のあまりにも世俗離れした行動と言動のためでした。

●まず資料集めから始めます。
 列福調査には、まず資料を集め、そして、付き合った生き証人の証言が必要となります。チマッティ神父の場合、広く活動したので日本とイタリアでその情報を収集する必要がありました。この任務をはたしたのは、師の最後の3年間、サレジオ神学院の院長だったA.クレヴァコーレ神父でした。神父は、1995年12月28日まで列福運動の担当者を務めました。

○950の作曲と5700通の手紙
 仕事を手がけたら、集まってきた資料の膨大な数に驚かされました。チマッティ神父の著作、本と記事、方々から出てきた作曲、人びとがよせてきた手紙、師が収集し整理した化石、鉱石、貝類、植物の標本の数々は、師の活動と趣味の広さを物語っていました。 今、師の資料館には950ほどの作曲が集められています。その中に、オペレッタは49、ミサ曲は19、聖体讃美式のためのTantum ergoは83、マリアさまの歌は約200、日本語の作曲約400などです。これらの曲を分類し、整理したのは、同じファエンツァ出身の音楽家Ino Savini氏、そして、教え子のRoberto Bosco氏でした。 手紙の数は5700通を越していました。ほとんどイタリア語です。日本語のものは原則としてローマ字ですが、戦時中、監視の厳しい時、カタカナで書いたものもありました。 今も、新しい手紙がよせられることがあります。これほどたくさんが保存されたのは、受けとった人びとがチマッティ神父を尊敬していたことの証拠です。師の心とその霊性を知るために、これらの手紙は類のない貴重な文献となります。ただいま、日本に関係あるものの翻訳が始まっています。

●証言の収集
 生き証人の証言は、列福調査に欠かせません。中には、自発的な証言が多く、東京やトリノの司教から任命された調査委員会の前で行われた公式証言もあります。これらを通して、チマッティ神父について知られていなかったエピソードや、生き方の細かいところまで知ることができます。死後10数年以内に得られた証言ですから、その信憑(ぴょう)性は高いといえます。

●調査終了
 東京教区の調査が正式に始まったのは1976年11月26日。終了したのは1978年1月24日でした。この日、調布サレジオ神学院の聖堂で当時の白柳誠一大司教と調査委員をはじめ、多数の聖職者、サレジオ会員、シスター方が参列し、まとめられた資料50巻がローマの調査委員会に送られました。

○トリノ教区での調査が終了したのは1978年6月3日でした。 その後、教皇から任命された調査委員会の判断を待つことになりました。

●ご遺体は腐敗していなかった
 教会法の規定により、調査修了の前、司教、調査委員、医師団の立会いの元で、ご遺体を検案することになっています。チマッティ神父の場合、1977年11月18日、調布サレジオ神学院地下聖堂で棺を開け、検案を実施しました。列席者はみな驚きました。二人の医師の記録はこう記しています。 「遺体はミイラ状態に非ず、死蝋状態に非ず、白骨化せず、全身にやや湿潤す。死臭は存せず、ただし、特別の匂あり。皮膚は弾力性あり、…軟部組織は柔軟にして弾力性あり、…緒関節は他動的にほどんど正常範囲まで運動可能なり…。以上の所見を総合して、死後12年を経過したる死体としては、われわれ二人の医学常識によっては説明する事は不可能なものである事を認めたい。」 遺体は新しい服を着せられ、新しい石棺に安置されました。 列福には奇跡を必要とします。これは一つの奇跡です。今は教皇庁からの判断を待っています。

最後に白柳誠一枢機卿のお話を紹介します。

白柳枢機卿
「チマッティ神父様は、本当にドン・ボスコの精神を持ち続けた人だと思います。ですから、その活動において非常に活発であり、すごい判断力に富んでいました。また、その基礎には本当に祈る人、がありました。彼の祈る姿は多くの人に感銘を与えました。私もその姿に接したことがあります。現代社会は、聖なる人を求めています。特に教会はそうです。教会は言葉だけでなく、生き方を通して、神の愛を証することが必要です。そういう意味でチマッティ神父様は本当に聖徳高かった。ですから、一日も早く列福されることを心から期待しています。そのためには、皆様方がチマッティ神父様のお取り次ぎを願って特別なお恵みを頂いたとか、奇跡的なことがあったとかで、そういうことがあったならば、それをぜひ関係者に報告して、それがまたチマッティ神父様の列福を早めることになると思います。」

<チマッティ神父の略歴>
1879.7.15 イタリア・ファエンツァでチマッティ神父誕生 同日にカテドラルで洗礼を受ける。洗礼名は「ヴィンチェンツォ・エンリコ・ガスパーレ」。
1899.9 王立トリノ大学自然化学部に入学 - 下級生の音楽と生活指導担当し、 必要に応じて、国語・ラテン語・数学・化学・物理学・農学・教育学も教える。若い会員に人気!ピセッタ神父シンプの下で神学の勉強も始める。
1903.7 自然科学農学部の博士号を修得。
1923.7.18 日本への宣教事業がサレジオ会海外事業開始50周年記念事業となる。日本への宣教師の団長に任命される。
1925.12.29 ジェノワ港からイツ船「フルダ 号 」で9名が出港。船上で後の一橋大学初代学長上村専禄らと出会い、日本語を習い、友情を結ぶ。司祭V.Cimatti, A..Cavoli, G.Tanguy, A.Margiaria, P.Piacenza, L.Liviabella, 修道士L.Guaschino, A.Merlino, G.De Mattiaらと共に来日。
1941.12.20 東京三河島教会の主任司祭となる。
1943.9 イタリア人宣教師は敵国人と見なされ、警察の監視下に置かれる。三河島教会で監禁される。
1944.9 三河島教会の主任司祭を辞め、練馬の神学校へ移る。
1946~ 数々の作曲やコンサートを行う。国分寺サレジオ学園の園歌を作曲。
1952.2.21 調布サレジオ短期大学校の初代学長となる。
1962.3 調布サレジオ神学院院長を退任する。
1965.10.6 朝6時15分に帰天。享年86歳3ヶ月。
1965.10.8 下井草教会で葬儀。府中カトリック墓地に埋葬される。
1976.11.26 東京教区で列福調査が開始される。 生き証人の証言を聴取。
1977.11.18 東京大司教と2人の医師の下で遺体検証が行われる。その結果、遺体が腐敗していないことを確認する。
1978.1.24 日本での列福調査が終了。ローマへ資料を送る。
1978.6.3 トリノ市でイタリアの列福・列聖調査終了。
1981.6.3 チマッティ神父の著書の調査終了。
1991.12.21 ヨハネ・パウロⅡ世教皇から「尊者」の称号を授与される。
1996.5.12 姉・シスター・ラファエラ・チマッティが列福される。
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