カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

アメリカの黒人指導者の歴史のこと。メモ。

2006-02-01 13:21:34 | Weblog
 メモ。

 アメリカの黒人指導者の歴史のこと。

                *

《故キング牧師夫人、コレッタ・スコット・キングさん死去》
(2006年01月31日22時30分朝日新聞記事)

 コレッタ・スコット・キングさん(人権活動家、公民権運動活動家の故マーティン・ルーサー・キング牧師の夫人)は、米NBCテレビなどによると、31日死去、78歳。昨年、心臓発作に襲われ、今年1月15日のキング牧師誕生日にも姿を見せていなかった。

 アラバマ州出身。ボストンで声楽を学んでいた時にキング師と出会い、53年に結婚。歌や詩の朗読を通し非暴力を訴え、キング師の公民権運動を支えた。68年にキング師がテネシー州メンフィスで暗殺された後、遺志を継いで公民権運動を指導した。

 南アフリカの人種隔離政策(アパルトヘイト)への反対運動など国際的にも活動し、80年代には米国でもっとも影響力のある黒人指導者の一人となった。夫の誕生日を米国の祝日とするよう活動した。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0131/002.html

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 マーティン・ルーサー・キング牧師夫人の記事を読んでいるうちに、ふとマルコムXのことを思い出しました。マルコムXについてよっぴさんがまとめられている記事が興味深かったので、そこから引用させて頂きます。

                *

高校の世界史の先生、やっぴさんによるサイト【歴史映画の部屋】
http://www.actv.ne.jp/~yappi/eiga/EE-03malcolmX.htm

『マルコムX MALCOLM X』(1992年/米/201分)

監督:スパイク・リー

出演:デンゼル・ワシントン/マルコムX、アンジェラ・バセット/ベティ、ショーティ/スパイク・リー

(みるまえに)

 映画の冒頭シーンがなかなか衝撃的。1991年におこったロスの警官によるロドニー ・キング・リンチ事件の映像とアメリカと国旗が交互に映し出され、バックにマルコムXの演説が流れる。国旗に火がつけられかと思うと、火は、「X」という文字を残してめらめらと燃える───。

 1993年春、日本に「マルコムX」ブームが沸き起こりました。これは、もちろんスパイク ・リーがはなった問題作「マルコムX」の公開によるものでしたが、はやりに乗っかってマルコムXのTシャツやキャップを身に着けた若者が街のあちこちに見られました。しかし、映画を見た人はともかく、マルコムXがどんな人か知らない人がほとんどだったのではないでしょうか。

 1965年2月21日、マルコムXは暗殺されました。ニューヨークのハーレムで演説中に16発の銃弾を浴びたのです。即死でした。“過激派”とか“暴力主義者”と呼ばれたマルコムXは、闇に葬られました。しかし、彼の肉体は消えても、彼の魂は人々の心の中に溶け込んでいました。その死から28年を経て、この映画はマルコムXを見事に甦らさせたのです。

 「X」とは何か。それは、映画を見ることによって明らかになります。「X」とは、さかのぼって知ることのできないアフリカの姓の象徴であり、先祖が白人奴隷主によって押しつけられた姓を捨てることだったのです。

 マルコムの演説には天性の巧みさがありました。
「つまり、私たちはみんな黒人なのです。いわゆる二グロであり、第二市民であり、かつての奴隷です。あなたはほかでもない、ただの元奴隷です。そう呼ばれたくはないでしょうが、しかしそれ以外の何者だというのですか。あなたは元奴隷なのです。」
「『私が刑務所にいた』と言ったからといって驚かないでください。あなたがたもまだ刑務所にいるのですから。それがアメリカということでしょう。アメリカは『刑務所』なのです。」(マルコムX『草の根黒人民衆へのメッセージ』1963年11月9日、デトロイト)

 マルコムは、人々にプライドを持て、そして現実を見つめろ、と激しいことばでたたみかけます。彼は黒人の置かれた状況をストレートに語っただけでした。しかし、マルコムの言葉は、当時の白人のメディアには脅威的なものと映りました。マルコムのイメージは、メディアによって次第に歪められていきました。“分離主義者”、“過激派”、“憎悪に燃える悪魔”……。マルコムが白人の集団的暴行にはいかなる手段を用いても抵抗せよ、と訴えると、メディアは“無差別暴力主義者”という派手な見出しで伝えました。

(こんな時代)

 当時、アメリカにはもう一人のカリスマ的黒人指導者がいました。その名は、マーティン ・ルーサー・キング牧師。彼はキリスト教の牧師であり、マルコムと対照的に非暴力による黒人解放を訴えていました。初期の頃のマルコムは、キング牧師を「アンクル ・トム的指導者」と呼び、「“敵を愛せ”なんてとんでもない」と非難していました。しかし、キング牧師もまた凶弾に倒れます。それは、マルコムX暗殺から3年後、1968年のことでした。

 アメリカで公民権法が成立したのは1960年。この法律によって建国以来初めて黒人が白人と同等の権利を認められたのです。1963年には、キング牧師指導のもと、奴隷解放100周年を記念したワシントン大行進が行われています。キング牧師は翌64年、ノーベル平和賞を受賞、同じ年、モハメド ・アリがヘビー級チャンピオンの座を獲得し、「怒れる時代」の象徴となりました。

(ものがたり)

 第二次世界大戦中のボストン。16歳のレッド・リトル(デンゼル・ワシントン)、のちのマルコムXは、相棒のショーティ(スパイク ・リー)とともに、ダンスホールに入り浸り、酒・タバコ・マリファナにうつつを抜かしていた。髪をコンク(薬品を使って縮れ毛をまっすぐにすること)にしたのも、白人の女にもてようとしたからだった。

 彼の父は教会の黒人牧師、母は白人との混血だった。父は黒人の指導者としてKKKにつけねらわれ、何者かに襲われ、列車の線路に横たえられて轢死する。しかし、自殺とみなされ一家に保険金は下りなかった。生活苦のため、兄弟9人はばらばらとなり、レッドは施設に預けられた後、里子へ出される。母は精神病院に入院した。

 小学校で成績優秀な彼は弁護士になりたいと言うが、教師は「手先が器用だから大工になれ」と言う。彼は、周りから「犬か馬のように」扱われ、いつも孤独だった。

 靴磨き、列車のボーイなど、転々と職を変えながら、彼はニューヨークのハーレムにやってくる。そこで“西インドのアーチー”というボスの目に留まり、暗黒社会にはいっていく。しかし、1946年2月、窃盗で足がつき、逮捕される。通常、窃盗の初犯は懲役2年だが、白人女性も共犯であったことから10年の刑を宣告され、チャールズタウンの州立刑務所に収監される。

 刑務所内で彼はベインズという黒人からイスラム教導師イライジャ・ムハマッドのことを聞き、しだいにイスラムの教えに引かれていく。イライジャとの文通と図書館の書物を通して、彼は、黒人と白人の歴史について学び、黒人についての真の知識に開眼し、同時にムスリムとなることを誓う。

 1952年、出所した彼はイライジャをたずね、彼の組織する“Nation of Islam”のメンバーとなり、「X」という名前をもらう。そして、デトロイトでイライジャの手足となって布教活動に専念するようになる。そのころ、看護学生でNOI婦人部の講師だったベティと知り合い、結婚する。彼の存在はしだいにマスコミの注目するところとなり、テレビにも出演。しかし、教団内では、そんなマルコムに対する反感も生まれていた。イライジャ師の女性スキャンダルも発覚し、ショックを受けたマルコムは、1964年、ついに教団と決別し、ニューヨークに「ムスリム ・モスク」を設立する。新しいスタートに当たり、彼はムスリムの最高の聖地、メッカ巡礼の旅に出る。それは、彼の魂のふるさとであるアフリカを訪ねる旅でもあった。彼はこの旅で、白人すべてを敵と見なすことをやめ、「非難されるべき相手」のみと闘うことを表明する。しかし、そんな彼と彼の家族に対する脅迫はあとを絶たず、ついに家が放火される。彼は家族と離れ、ひそかにホテルに潜伏せざるを得なかった。

 1965年2月21日、マルコムはハーレムのオーデュボン・ボール・ルームに講演のためにおもむく。家族も会場に呼び寄せ、久しぶりの再会となるはずだった。ところが、講演開始直後、3人の男が突如マシンガンを放つ。全身に16発の弾丸を浴び、マルコムXは39歳の短い命を終えた。イライジャの組織のメンバーが犯人として逮捕された。

(みたあとで)

 映画の最後に、マルコムXの実写フィルムが映し出され、南アフリカのマンデラ大統領がマルコムXの演説の一節を子どもたちに向かって語りかけるシーンが出てきます。本物のマルコムXを見ると、デンゼル ・ワシントンの迫真の演技がますますリアルなものに感じられます。
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