カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

『モロッコ流謫』のこと(メモ)

2006-02-04 10:48:05 | Weblog
 読んでみたい本のメモです。


『モロッコ流謫(るたく)』・四方田 犬彦【著】新潮社 (2000-03-05出版)
https://bookweb.kinokuniya.co.jp/hb/honten/wshosea.cgi?W-NIPS=9973343395

[B6 判] NDC分類:294.34 販売価:\1,995(税込) (本体価:\1,900)

 マチス、石川三四郎、バロウズ、ジュネ、ボウルズ…。
 天才たちはなぜモロッコにたどりついたのか?その魔術的な魅力に迫る悦楽の紀行エッセイ。
 著者自身の濃密な体験と五感の記憶が独特のイスラム文化や歴史への深い洞察を誘い、「地中海の余白」の肖像を描く。

                *

【Cafe Panic Americana Book Review】サイトの「エッセイのページ」
http://www.flet.keio.ac.jp/~pcres/essay/reviews/morocco.html

   『存在の危機、場所の批評』by大和田俊之 氏(慶應義塾大学大学院)

 外人部隊きっての色男、ゲイリー・クーパー扮するトムは、マレーネ・ディートリッヒ演ずる酒場の歌姫アミーと次のような言葉を交わす。

トム 「君は一体なんでこんな国に来たんだ?」
アミー「あなたは同じことを聞かれたらどう答えるの?」
トム 「そうだな。何も答えないだろうな。外人部隊に入隊したときに過去は捨てたんだ。」
アミー「女にも外人部隊があるのよ。」

 ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督の『モロッコ』(1930)の一場面 である。過去を切断し、新たな生を営み始める場所としてのモロッコ。この地は古くから、諦念と希望に満ちた西洋の芸術家や知識人を数多く惹きつけてきた。ドラクロワやマティスといった画家は、地中海の溢れんばかりの色彩 に魅惑され、ピエール・ロティやポール・モランなどの作家は、ここに西洋近代のネガとしての異国情緒を見出した。ローリング・ストーンズの創始者ブライアン・ジョーンズは、「ワールド・ミュージック」などという言葉が流通 する遙か以前に、タンジェ周辺の民族音楽を録音した『ジャジューカ』を世に問い、フリー・ジャズの巨人オーネット・コールマンも、当地で授かった霊感をもとに名作『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』を発表する。そしてここに、同じようにモロッコに誘惑され、一冊の書物を纏め上げた一人の日本人がいる。

 『モロッコ流謫』は、「場所」を巡って記憶と思考が織りなす壮大な絵巻である。それはエッセイと呼ぶにはあまりに知的豊饒に満ち、地域研究と称するにはあまりに私的な情感が溢れている。ジブラルタル海峡に面 した港町タンジェから内陸の旧都フェズへ、更にアトラス山脈を越えて砂漠のオアシスを訪れ、再びタンジェへと戻る著者の旅路は、縦横無尽に交錯する文化史的挿話によって鮮やかに彩 られている。かくして山麓の邑マラケシュでは、かつて無謀にもベルベル人と日本人の血縁を立証しようとしたアナーキスト石川三四郎へと著者の思考は漂い、山脈に分け入るバスの車中では、三島由紀夫の実弟であり、モロッコ大使として赴任していた平岡千之との出会いが唐突に想起されるのである。

 四方田犬彦をモロッコに導いたのはポール・ボウルズであった。卓越したスウィフト論『空想旅行の修辞学 ・「ガリヴァー旅行記」論』を始めとして、比較文学から映画史、更には漫画に至る諸領域において旺盛な執筆活動を展開する著者は、このアメリカ人作家の名を映画監督ジム・ジャームッシュを通 して知ったという。1947年以来、妻ジェインと共にタンジェに滞在し続けたこの作家は、『シェルタリング・スカイ』や『蜘蛛の家』といった代表作をこの地で書き上げている。彼のもとへは、テネシー・ウイリアムズやトルーマン・カポーティ、あるいはアレン・ギンズバーグやウイリアム・バロウズといった作家が引切なしに訪れ、ある者は社交界の寵児として脚光を浴び、また別 の者は麻薬と少年愛の世界の虜になっていく。

 ボウルズは「異人種の中で外国人として暮らすこと」に最上の悦びを得た作家である。彼は常に「自分を世界の外側に置いて」語り、作品の登場人物は「つねに外側から、冷たい眼差しのもとに描写 」されていた。しかし、それは世界に対して超越的に振る舞うことを必ずしも意味しない。そうした帝国主義的な眼差しが、「自分の語りが拠って立つ場所に無自覚のままに終わる」ことを十分に自覚しているからだ。では、いかにして「オリエンタリズムの罠」に陥ることなく、外部の視座を維持することが可能なのだろうか。著者のモロッコを巡る語りの深層には、常にこの問いが通 奏低音として鳴り響いている。

 感傷を適度に抑制した文体は、現実の時空から隔たる著者の観賞者としての立場を強固にしているかのように見える。しかしこうした態度は、旅が進むにつれ幾度か脅かされることになる。まず「外部」という言葉が、西洋人ボウルズと日本人である著者とでは決定的に異なることに彼は気付く。アトラス山脈を越えて広大な砂漠を前にした瞬間、著者はオクシデントとオリエントという二分法が、「どこまでも地中海を鏡面 として対照的に成立しているという認識」に思い当たる。著者は、日本を含む「極東」が、そもそも「この鏡像の関係に割って入ることはできない」という現実に直面 するのである。とすると、彼自身が拠る「外部」とは、自ら主体的に選び取った場所ではなく、二分法からあらかじめ排除された、存在しない空虚な地点に過ぎないのではあるまいか。

 かつて著者は『月島物語』において、歴史とは無縁の東京湾に浮かぶ埋め立て地が、「下町」という記憶を捏造する視線のもとに晒されている皮肉を炙りだした。また『貴種と転生・中上健次』では、古今東西の書物を総動員しつつ、一人の作家が築き上げた壮大な紀州サーガを掘り起こしている。これらの作品群と照らし合わせたとき、『モロッコ流謫』において一際輝きを放つのは、著者が砂漠のオアシスの真中に十六世紀に建立された図書館を発見する件だろう。常に「場所」に纏わる記憶と歴史に思考を巡らせていた著者にとって、「すべての書かれた文字が熱気と光線によって焼け切り、消滅するはずの場所において、世界の記憶とでも呼ぶべき図書館に遭遇した」瞬間の驚きは想像に難くない。月島の建造物が取り壊されるたびに「場所」の記憶が一新されるように、建築は記憶を消滅させるのであり、「恐るべき記憶を埋蔵させた空間」は、荒漠とした砂漠にこそ存在していたのである。

 この圧倒的な光景は著者に「帰還」を迫ることになる。しかしこの決断は、旅が折り返し地点に到達したことを示すだけではなく、『モロッコ流謫』における重要な転機をも内在させている。それは、著者が「帰還の不可能という主題を生涯をかけて探求してきた作家」と呼ぶポール・ボウルズとフ決別 である。

 タンジェへの帰路で著者が思いを馳せるのは、ボウルズ批判の著を刊行したモロッコ人作家モハメッド・ショックリーと、ヨーロッパを捨ててパレスチナ政治闘争に参入した作家ジャン・ジュネである。ここに著者自身の変化の兆しを読みとることができる。実際、旅を終えた著者は、「ボウルズ的なるものによって開始されたわたしのモロッコへの関心は、十数年を経るうちに、しだいにゆっくりとではあるが、ジュネ的なるものへと移行しつつある」と告白する。ボウルズからジュネへ。これが具体的に何を意味するかは記されていない。ただしこの告白は、旅の冒頭で、「いかにも高みから見下ろした」ハリウッド的メロドラマに終始する『カサブランカ』よりも、「現実のモロッコに正面 からぶつかり、身振り手振り思い付くかぎりの方法でこの国への愛情を告白している」愛川欽也監督・主演の映画『さよならモロッコ』を評価する著者の思考と呼応するものだといえるだろう。著者の「帰還」を否定的に捉えてはならない。それは、抹消された著者自身の「存在」を取り戻し、世界にいま一度介入するための静かな意志の現れかもしれないのだ。

 こうして著者の炯眼は、長屋の建ち並ぶ月島の路地を経て、中上健次を産んだ紀州の路地をも貫き、迷路のように入り組んだメディナへと射程を延ばす。記憶と歴史、そして思考が横溢する「流謫」の地モロッコは、著者自身の存在をも賭したすぐれて批評的な「場所」なのである。(了)

                *

【小沼研究室】(小沼純一先生の運営されているサイト)の「お勧め本」のコーナーより。
http://www.f.waseda.jp/jkonuma/recomendedbooks.htm

「このページでは、学生諸君に、けっこう面白いと思われる本を紹介しています。但し、網羅的ではなく、あくまで20代前半くらいの読者を対象に、しかも、当方がこの数年のうちに読んだり再読したりしたものを中心に。また、コメントは随時追加してゆく予定です。」

テーマ【海外の文化や旅行記・滞在記を集めて】

四方田犬彦:『モロッコ流謫』(新潮社)

 → アメリカ出身でモロッコに住んだ作家・作曲家、ポール・ボウルズをめぐって記されたボウルズ論と旅行記。

(後略)
コメント
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