ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

サンダーバード

2017年10月15日 | ノンジャンル
初めに断わっておくが、現行憲法は敗戦後、
米国に押し付けられたものではない。

平和を希求する未来に向けての、決意ともいえる
宣言が第9条なのである。

それは中立とは異なり、戦争を放棄するという
理想であるがゆえに、他の国の憲法に類を見ない。

自国防衛というのは当然の権利なのだが、むしろ
この憲法の理念は、自国他国の区別なく、共に
平和を構築していこうという捨て身の決意である。

懐に刃物を忍ばせて、あるいは、互いに銃口を
向け合っての対話ではなく、丸腰で相手の懐に
飛び込む凄みと度胸がそこにある。

前置きが長くなった。

自衛隊という再軍備こそが、米国の都合で戦後に
押し付けられたものである。

故に、その存在意義を憲法解釈という形で70年
以上にわたって整合させようとしてきたのである。

今、自衛隊を憲法上に明確に記述する方向で与党は
動いている。

焦点を憲法から自衛隊、いや、国防に向けることに
躍起となっているが、今一度、絶対平和の憲法に
目を向けると、自衛隊の存在意義は大きい。

戦後、一度たりとも戦闘行為は経験していない
自衛隊だが、この国は災害のメッカである。

地震、台風、土砂災害、噴火、洪水、津波と、
世界中の災害を一手に引き受けているような国土で
災害時のレスキュー活動においては世界にも類のない
ノウハウと経験を積んできた。

ここで頭に浮かぶのが、子供の頃によく観ていた
「サンダーバード」である。

それは、国際救助隊という私立組織で、地球上、
あるいは宇宙で起こる様々な事故や災害に際し、
最先端技術で救助活動をする。

将来的に、自衛を含みはしても、むしろこの
国際救助隊という形に自衛隊が昇華していけば、
その存在意義は、現在の何百倍の価値を生み、
志願者も増えることと思う。

日本にサンダーバードが誕生することを
想像するだけで、わくわくするのである。





絶対と相対

2017年10月14日 | ノンジャンル
絶対ゼロからの増分が絶対値、任意の基準からの
増分が相対値である。

自分より上もいれば、下もいるというのは、
自身を基準とした比較相対である。

基準自体が変遷し、あるいは任意で変えられたなら
上も下になり、下も上になる。

座標なり、数値的な評価ならともかく、
変遷し続ける自身や他者の評価を、比較相対で
測ることはできないし、意味もない。

しかしながら、とかくその意味のない比較相対で
人を評価してきたのが、この社会である。
そしてその根本は、やはり人なのである。

この世に生れ出たことを、絶対ゼロとした時、
私たちは、時間軸で自身の現在の位置を知り、
増分、つまり人としての自身の成長の度合いを
見出すことになる。

相対というのは、自身の生き方の原点を基準として、
そこから前へ進んでいるか、停滞、あるいは
後退しているかを判断・評価することである。

原点に還るとは、自身の現在に原点を置きなおして、
つまり基準を置きなおして、プラスへ一歩を新たに
踏み出していくということである。

離陸した飛行機は、必ず着陸せねばならない。
限られた燃料で、どう飛ぶかは、自分次第である。

他の飛行機が、高いところを飛んでいる、
低いところを飛んでいる、高速で飛んでいる、
低速で飛んでいるなどということは、
どうでもよいことなのである。





プライド

2017年10月12日 | ノンジャンル
プライドとは誇りであって傲慢ではない。

若い頃はそれを取り違えていた。

大手企業の傲慢さに憤慨しながらも、会社ではなく
業界に生きる心構えがあった。

ところが、次々と新たな事業を展開していく中で、
いつしか小さな会社の中で、小さなプライドに
固執していった。

業績が伸び悩み、その小さなプライドが崩れていき、
やがては、アルコールに逃げ、全てを失いかけた。

復帰後も低迷は続き、耐え難い屈辱を味わった
こともあった。

そんな自分を支えたのは、家内と子供達であった。
自らの生き方というプライドを取り戻すために
死に物狂いであった。

長年に渡り、蓄積されてきたもの全てが背骨となって、
業績トップの座を揺るぎないものにしてこれた。

今、その中で自問自答している。
私が本当に望んでいたのは、小さな会社の中で
賞賛を得ることだったのか。

取り戻したかったのは、そんな小さなプライド
だったのかと。

答えは否である。私が取り戻しつつあるのは、
一期一会の誠意と感謝というプライドなのである。

そこには、謙虚と、感謝と、勇気と挑戦がある。
そして、驕り高ぶりは、微塵もないのである。

つまり、できることを精一杯という
プライドなのである。





モノづくり

2017年10月11日 | ノンジャンル
大手製鋼メーカーの製品品質保証データの改ざんが
取り沙汰されている。

日本のモノづくりの品質神話も崩れて久しい。
モノづくりの空洞化に伴って、品質も蔑ろに
されるなら、モノづくりなどやめればよい。

ただ、これはいわゆる品質問題ではなく、
契約の問題である。

一般の規格に準じたものであれば、
品質的には問題ない。

だが、製鋼メーカーが提供するのは素材である。
その素材を使って製品を作る側にとっては、
契約仕様に準じていない素材を購入し続けた
ことになる。

購入側も、自動車、鉄道、航空機などの
大手メーカーである。

重要保安部品の多い業界で、素材購入者側が
その改ざんに気付いていなかったとすれば、
それはそれで大きな問題である。

いわゆる受け入れ検査体制が厳格でないことを
露呈することになる。

大手は、標準規格をベースに、個別の契約規格、
仕様を取り決めているが、通常そのレベルは、
標準規定の2-3倍増しとなっている。
特定の製品によっては、10倍増しなどという
ものもある。

よって、今回の改ざんによって、それがすぐさま
流通製品の問題とはならないことは、関係者なら
わかっている。

どうも、特定のメーカーというよりは、業界自体の
暗黙の了解的な背景が見える。
事実、契約規格から外れていても、特別採用という
措置も製品によっては為される。

マスコミが喧しく取り上げているのに対し、実質の
被害者ともいえる素材購入メーカーが割合に
落ち着いているのはそういうことだろう。

下手に騒ぐと、今度は自らのチェック体制を問われる
ことになるからだ。

いずれにせよ、職人気質がモノづくりから失われれば、
それはただの生産になる。
こだわりというものを失い、コストと納期だけという
商売人の気質と混じれば、それはもう職人ではない。

モノ売りは商売人で、モノづくりは、職人の
ものである。
職人が商売人になれば、そこにモノづくりはない。






うばすて

2017年10月10日 | ノンジャンル
いわゆる棄老伝説である。

民話では、姥捨て山、小説では、楢山節考が
有名である。

実際のところは伝説ではなく、貧しい山村や
農村で「口減らし」的に、現実生活に即した形で
行われていたであろう。

さて、自身に照らせば、今はまだ「お役に立つ」
時期にかろうじて入っている。

とはいえ、何の役にも立たない、食べて寝るだけの
木偶の棒になる日も、そう遠くはない。

自分でトイレにも行けなくなるくらいなら、
自ら死を選ぶ。もっとも、頭が惚けていれば、
その意思表示さえかなわない。

死の局面において、かろうじて理性を失わなかった
が故に、今現在の生がある。
私にとっては、理性を失うことはそのまま
自身の死である。

惚けて生きながらえる事だけは何としても避けたい。

ところで、社会に切り捨てられた厄介者としての
老人は、それぞれ、珠玉の経験というものを持つ。

いっそ、そんな冷たい社会を去って、自ら老熟社会の
縮図を作ってみてはどうか。

常に死というものを身近に感じながら、今日という
日を皆で助け合って生きる。

できることを精一杯で、それでも死にゆくことを
受け容れつつ、互いに支え合う理想郷を、長く人生を
生きてきたものだからこそ創造できるかもしれない。

今の社会が「生き場所」なら、そこは「死に場所」
になる。
少なくとも、そこには、生き辛さはなくなるだろう。

つまり、棄老の場所ではなく、輝老、喜老、貴老の
場所となるのである。