ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

うばすて

2017年10月10日 | ノンジャンル
いわゆる棄老伝説である。

民話では、姥捨て山、小説では、楢山節考が
有名である。

実際のところは伝説ではなく、貧しい山村や
農村で「口減らし」的に、現実生活に即した形で
行われていたであろう。

さて、自身に照らせば、今はまだ「お役に立つ」
時期にかろうじて入っている。

とはいえ、何の役にも立たない、食べて寝るだけの
木偶の棒になる日も、そう遠くはない。

自分でトイレにも行けなくなるくらいなら、
自ら死を選ぶ。もっとも、頭が惚けていれば、
その意思表示さえかなわない。

死の局面において、かろうじて理性を失わなかった
が故に、今現在の生がある。
私にとっては、理性を失うことはそのまま
自身の死である。

惚けて生きながらえる事だけは何としても避けたい。

ところで、社会に切り捨てられた厄介者としての
老人は、それぞれ、珠玉の経験というものを持つ。

いっそ、そんな冷たい社会を去って、自ら老熟社会の
縮図を作ってみてはどうか。

常に死というものを身近に感じながら、今日という
日を皆で助け合って生きる。

できることを精一杯で、それでも死にゆくことを
受け容れつつ、互いに支え合う理想郷を、長く人生を
生きてきたものだからこそ創造できるかもしれない。

今の社会が「生き場所」なら、そこは「死に場所」
になる。
少なくとも、そこには、生き辛さはなくなるだろう。

つまり、棄老の場所ではなく、輝老、喜老、貴老の
場所となるのである。