ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

七転八起

2017年09月19日 | ノンジャンル
達磨ではなく、坪内逍遥の「当世書生気質」に
出てくる言葉である。

何度倒れても立ち上がる、「明日のジョー」的な
不屈の根性というイメージだが、その意味は
真逆である。

つまり、「負けてもいいんだよ」という意味である。

帝国大学の政治科に学び、軍部あるいは政府への
エリートコースにあった彼は、当時の富国強兵、
軍国主義の体制に抗い、文学への道に進んだ。

今でこそ明治の文豪と称される彼だが、当時は
小説家など売文屋と呼ばれ、社会的にも蔑視され
差別されていた。

そして、彼が妻に娶ったのは、貧しい
売春婦であった。

七転八起とは、何が何でも勝って名誉と栄光を
獲得しようという当時の風潮に対し、人生50年、
その最後の時に、良いことも悪いことも振り返って、
良いことが少し多ければそれでいいではないか
ということである。

勝つこともあれば、負けることもある。
名誉を得ることもあれば、恥辱を蒙ることもある。
過ちを犯すこともあれば、人や社会に寄与する
こともある。

最後に振り返って、15の内、8つ良ければ、
大満足ではないかということである。

そこには、人というものに対する柔らかさ、
優しさがあふれている。

現代の勝ち組、負け組、自己責任という、いわゆる
二極化は、まるで過去に戻ったかのような対立を
生み出している。

勝ち続けることもなければ、負け続ける
こともない。

七転八起で、自身も他者も、共に歩んでいこうと
いうのが、彼の生き様において、当世の私たちが
学ぶべきことなのである。





表裏

2017年09月18日 | ノンジャンル
台風一過の青空に、澄んだ空気のせいか、山の緑が
キラキラと眩しい。

人の善悪など、区別できるものではなく、
表裏一体のものである。
一方を否定することは、全体を否定することになる。

墓参りに出かけて、母親というのは、大体において
肯定の人であったかと思う。
反して、父親は、否定の人であった。

とはいえ、いずれも肯定ばかりではなく、
否定ばかりでもない。

肯定して、ありのままの良いところを伸ばす。
否定して、より良きを目指すよう励ます。

片親というのは、一人でその二役を果たす
という点で大変なことであろう。

両親に育まれたことを感謝すべきかと思う。

明日が見えないどん底の今日でも、一条の光を見出し、
有頂天の今日でも、明日の急転直下を覚悟する。

良いことばかりでもなければ、悪いことばかり
でもない。

トントンなら上々というべきか。

無意識下では、心身共にバランスを取ろうと
している。
意識下でアンバランスを感じるなら、基本中の
基本に還ることである。
食べることと、寝ること。

心身の不順は、この基本の不順によるところが
大きい。

台風が過ぎるとともに、秋が色濃くなる。

表も裏も、善も悪も、光と影も一体と思い合わせて、
さて、自分は今日をどう生きるかを、これからも
問い続けていくのみなのである。





台風

2017年09月17日 | ノンジャンル
久し振りに台風が近畿を直撃している。

地形的に大阪市内の平野部は、
台風の影響が減衰するようになっている。

それでも夜にピークを迎え、立って
いられないほどの暴風、飛沫をあげる
豪雨となった。

大阪を取り巻く山は、兵庫、京都、
奈良、和歌山に連なり、各地は
比較にならないほどの風雨だろう。

淀川も夜目にもはっきりわかる
白い波しぶきをあげている。

せっかくの連休も台無しだが、明日は
台風一過の秋晴れとなるだろう。

夏の疲れが出るこの時期、感傷ではなく
心傷に苛まれる時期でもある。

お彼岸も近いし、墓参りに行こうか。
明日があればの話である。





先生

2017年09月15日 | ノンジャンル
日本で医師や教育者、政治家などに敬称として
使われる「先生」は、中国では○○さんと同じで、
特に敬称ではない。

自身よりも年配の方に○○先生と呼ばれると
恐縮するのだが、日本での意味とは異なる。

まあ、あえて敬称とするなら、「老師」
となるだろうが、これもイメージとしては、
仙人のような風貌が頭に浮かぶ。

先生のいわれには様々な説や意味があるが、
お酒を飲んで酔っても、先に醒めるという
説がある。

これはいわゆる、真理の発見などのような覚醒を
意味しているのだろうが、飲むことを前提に
しているので、節酒となるだろう。

つまり、節酒は先生、断酒は老師となる。
因みに、老師とは、先生の先生でもある。

であれば、節酒の限界に覚醒し、断酒を実行する
ものは、老師という事になる。

一気に年寄りになった気分だが、自称、
○○老師という事でいこう。

日本人的な感覚で言えば、○○先生と呼ばれる
面映ゆさよりも、○○老師という自戒的な
響きの方が良いかもしれない。

元の意味からかけ離れた、ゆがんだイメージが
定着してしまったのが、「尊師」である。

いずれにせよ、「師」という字がつくなら、
その人に「私」があってはならない。

他者の苦悩に寄り添い、それを自身の苦悩とする
生き方に、「師」という字がふさわしいのである。





不倫

2017年09月14日 | ノンジャンル
浮気の経験はあるが、不倫はない。

相手から見れば、私は妻子ある身なので不倫と
なるだろうが、私にすれば浮気である。

つまり、人妻には、いくら興味があっても
手を出さない。

その向こうに、旦那さんや、ましてや子供が見える
となると、とてもその気にはなれない。

男たるもの、ハンターのDNAを持つ者は、
母艦に守られて安穏としていてはならない。
常に出撃体制を取って、発艦していくべきなのだ。

いや、こう言ってしまうと、一例をもって全体を
判断するという愚に陥るであろうから、私に限って
という事にする。

いかなる過酷な戦いへの出撃であろうと、
当の本人は、必ず帰艦するつもりで出撃している。

要するに、母艦は右往左往する必要は全くない。
無事に帰艦すれば良し、帰艦せずとも、悠々と
巡航していればよい。

昨年より、どうも不倫ブームのように喧しいが、
虚仮のイメージを商品としているならともかく、
一般においては、当人とその家族の問題である。
周りが騒ぎ立てたところで仕方がない。

さて、浮気はDNAである。しかして、帰艦も
DNAである。

母艦にうろうろされたら、帰艦したくても
できなくなる。
幸いにも、私の母艦は泰然自若としている。

したがって、これからも、浮気はあっても
不倫はないのである。