ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

玉に瑕

2009年09月08日 | ノンジャンル
私は完璧主義者ではないが、完璧ということ、パーフェクトで
あることを志向し、好む。
瑕一つない完璧な玉の魅力に魅かれる。

ものは非常に大切にするが、初めて手にしたときに、
多少とも瑕があると、ガッカリしてしまう。
自分の不注意で瑕をつけてしまったときも同様である。

日常的に使うものですら、購入時の状態を極力維持しようと
するが、徐々に瑕は増え、 劣化していくことは
避けられない。

そうした時には、その瑕を受け容れ、機能面に注意が
向けられる。つまり、満足な機能を発揮していることに
焦点を置いて、その機能を維持しようとする。

機能面で弊害が出てくれば、なるべくその回復に努める。
愛着のあるものであれば、外見、機能面共に弊害が
あったとしても、それを受け容れて使うこともままある。

どんなものでも、10年以上使うというのは私にとっては
珍しくもなく、当然のように 考えている。

人に約せば、完璧を求めること自体が誤りである。
瑕のない玉など存在しない。
もし完璧な珠玉とも言うべき人がいるとしたなら、
その人の前ではただ跪くしかないであろう。
瑕のない玉に触れることはできないからである。

人はそれぞれが瑕を持ち、傷を持っているからこそ、
人と触れ合うことが出来る。
そして、その瑕さえも互いに受け容れられるなかに、
相和するということが可能となるのである。

自分の玉を、人のものより高貴に見せるために、人の玉を
疵付けようと する事は、それ自体意味のない、
陋劣な業である。
もとより瑕のある玉なら、それを磨いていくことを
考えた方がよほど健全である。

自身も瑕だらけの玉を持つ身ではあるが、少なくとも
それが完璧となる事はよもやない事を自覚しながらも、
自分なりにこれ以上瑕をつけないようにせっせと
磨いていく のみである。

そして、磨き続けていく限り、その瑕さえも意味のある
味わいとなっていくのかもしれない。



パートナー

2009年09月02日 | ノンジャンル
欧米社会において、結婚は一つの契約という概念が強い。
よって、互いをパートナーとして見ると共に、それぞれの
役割というものに高い関心を 示す。
もちろん、恋愛を経て、共に暮らしたいという想いで
寄り添うことは間違いないが、二人の現実生活が継続して
いく中で次第にこの概念が前面に出てくるようになる。

形としては一枚のペーパーワークによって交わされた
契約であり、その解除も一枚のペーパーワークで終わる。
契約が解除されたならもうその瞬間から赤の他人である。
だが、赤の他人であることは、結婚前も、結婚後も、
離婚したとしても何ら変わりはない。

たまたま同じ船に乗り合せ、対岸につけばまた別れるような
そんな関係である。
語感だけでものを言ってはいけないが、何となくパートナーと
言うとそういう感じがする。

つまり、互いに契約を交わしている以上、それに反すれば
その契約を解消するという、 至極冷静で、理性的なものを
そこに感じるのである。
この関係は、分かち合うという点において言えば、
喜びや幸せを分かつ点では何ら問題ないであろうが、
苦しみや悲しみ、不幸を分かつ点において非常に脆弱である。

これに反し、夫婦(めおと)という浪花節的な語感には、
冷静さも理性もあまりないようだが、二人の関係の歴史を
感じさせる。
喜びを分かち合えば二倍になる。悲しみを分かち合えば
半分になる。半分になっても悲しいのはやはり悲しい。
二倍にならずとも嬉しいのはやはり嬉しいのであって、
それは比較しようもない。

夫婦の語感は、喜びよりも悲しみを、楽しさよりも苦しさを、
幸せよりも不幸を分かち合って、それを共に乗り越えてきた
二人の軌跡の重みがある。

これは、一朝一夕に出来上がる関係ではない。
だからこそ、その夫婦の関係は特別なものとなっている。
互いにパートナーとなることは容易い。
だが、夫婦となる事は本当に難しいことだと思われる。
事実、夫婦となる前に、パートナー契約を解消する人達の
なんと多いことか。

周りがどう思おうが、その夫婦には、その夫婦独自の特別な
ものを互いに共有しているのである。
それは、特有のものであって、広く世間一般の常識で
判断すべき事でもなく、判断出来もしない。

それはもはや、ペーパーワークの関係ではない以上、
書類一枚で何がどう変わるわけでもない。
互いに身を二つに裂いて、半身を交換したような関係に、
紙切れ一枚など何の意味もないのである。

血を分けてもらった親との絆に対し、血を交えて築く
関係なのである。
生まれてくることと、生きていくこと程の違いが
そこにはある。

私たちもまた、ようやくその「夫婦」の「め」の字を
書き始めたところかもしれない。

いつの日か、その書き上がった文字を二人でしげしげと
眺めるときもあるであろう。

その日を夢見て、今日一日をまた二人して
生きていくのである。