ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

リズムの乱れ

2008年07月20日 | ノンジャンル
前回の記事で、原点を現在に置換するという事を書いたが、やはり、
大きな周期の波において、節目となる時はそのまま過渡期と
なるようである。

3の倍数でアホになるという芸人がいるが、私の場合も、
3の倍数月、倍数年に、いわゆる谷の周期となるようである。
3年前の6月に病院に繋がってから、7月の今頃まで毎日通院で
治療にあたり、本格的な復職は連休明けの19日であった。

同時に、通院していた頃の規則正しい生活が、復職と同時に徐々に
乱れ始め、なるべくリズムを維持しようとしては来たが、今年に
入って立場や責任が重くなってからというもの、不規則なリズムが
常態化していた。

週末にはその疲れがどっと出て、ごろごろする事も多かったように
思える。実際、院内例会も先月、先々月と欠席し、通院も先週、
先々週と出来ていなかった。

昨日通院し、相談もさせて頂いて、一時的な対応としての処方も
して頂いた。
今日は例会に出て、案の定指名されたが、今の実状をありのまま
話せて、少し楽にはなった。久し振りに話す事が非常に億劫で
あったが、敢えてそういう機会を与えてくださった院長先生に
感謝したいと思っている。
ともあれ、リズムの乱れというものを自身の中に改めて認める
事が出来た。

お酒をやめ続ける事自体は落ち着いた今、生活習慣というものに
ついて、もう一度原点を置き直す必要があるだろう。
生活の基本である。考えるのは明るいうちに。きちんと食事を
取って、一日を終えて疲れている夜はさっさと寝る。

日々の生活リズムの乱れはそのまま徐々に心身に悪影響を及ぼす。
この依存症自体も、糖尿病などと同じく、生活習慣病なのである。
今必要なのは、ともかくもリズムを取り戻す事であろう。



原点置換

2008年07月16日 | ノンジャンル
バックプレッシャーとは、言うまでもなく前面からではなくて、
背面から受ける圧力であり、それに気付くのは、かなり高く
なってからで、前面からのようにその都度感じる事が難しい。

知らぬ間に少しずつ累積されて、臨界点を越えた時に一気に、
思いも寄らぬところから噴出するようである。

今回、多分初めての経験だろうが、もう本当に何もかも面倒で、
どうでも良くて、心身ともにどうしようもなさに翻弄され、
寝るのも、食べるのも、動くのも、考えるのも全てが億劫で、
息苦しい数日を過ごした。

その中で、待ってはくれない仕事を続けながら、何度消えたいと
思ったか知れない。
風の中で粒子となって砂が吹き流されていくように、さらさらと
消える事が出来れば「楽」というより、気持ちがいいだろうなと
感じていた。


わずかに残された理性が、家族の事、会社の事、自分の為すべき事、
周りの人達の事、そして自分の命の事を想起させ、うつろとなった
心身を支えながら、引きずるように動かしていたが、それすらも
風前の灯のようであった。

何も考えられない、気力がない、意欲がない、身体も動かない。
生きながら廃人のようになった自分を覆い尽くしていたのは、
「出来ない」、「出来ない」、「出来ない」であった。

なんとしたことか。わかっている自分がどんどん小さくなり、
そのわかっている事すら忌み嫌い、消し去ろうとする。
抗えば抗うほど、力を奪われるようであった。

まだ、離脱症状と戦っていた時の方が、気力体力共に限界に
あったとはいえ、なんというか、命の芯のところで、力があった。
今回は、そのあたりの芯の力を抜き取られていくようなのである。

これは非常に厳しい。
苦しいでも、辛いでも、憔悴でも、落胆でもない。
そんな生と直結したものではない。
言わば死と直結したものであった。
崩壊とか滅びと言った方が適当かもしれない。
燃え尽きなどという格好の良いものではない

そのありのままを、整理しておく必要があるとも考えたが、
いざ始めると支離滅裂で、結局削除した。
今、やっと整理とまではいかなくとも、吐き出せるまでになった
というところだろうか。

もともとお酒が飲めないのではない。散々お酒の力を借りてきた。
否、むしろお酒がなければまともな神経を維持出来なかった
かもしれない。
効用のみがあるのであれば、間違いなく現在も飲み続けている。
だが、私はもう、薬物を毒物としてしまった。

つまり害はあっても、以前のような効用はまるで期待できない。
だからこそ断酒を継続している。
毒物としてしまったお酒を断ち続ける事は、ある程度の期間に
おいては非常に有効である。

健康の回復、身体機能の回復、神経系の回復、精神系の回復等々。
だが、改めて理解した事は、自身はその薬としての効用も
経験しているという事である。
既に毒物としての害を経験し、断酒をしているわけであるが、
それはもう自身にとってお酒が害とはなっても薬となる事はない
という諦めなのである。

しかるに、飲んでいた頃と現在と、社会生活が一変した
わけでは無い。
むしろ立場や責任は重くなっている。様々な変化の都度、
素面で向き合って何とか乗り越えてはきたが、逆に言えば
その効用無しで3年間踏ん張ってきた以上、それなりの成長も
あるには違いないだろうが、気付かぬうちに背圧も徐々に
累積されてきたに違いない。

更に悪い事には、様々な回復は、それまで鈍化させてくれていた
感性を、わかりすぎる、見えすぎる、感じすぎる、と、どんどん
鋭敏化させてきた面もある。

確かに3年という月日は断酒を楽にし、安定化させ、
欲求そのものを非常に落着かせている。
だが、同時にその裏で、つまり断酒継続と平行して、相反する
抑圧、背圧というものを蓄積し、鋭敏化していく感性がその圧力を
更に増幅するといった背景があったようである。

今回の予期せぬ背後からの圧力噴出は、驚天動地ではあったが、
自身の驕りに対する最大限の警鐘とも捉える事ができる。
即ち、断酒の安定継続によって慢心している自身は、それに伴って
累積される背圧を負っていけるほどの大きな度量がある人間では
ないという事である。
狭小かつ矮小で、いざとなれば小さな自分自身の事でもはや精一杯
という度量のレベルである。

断酒を手段としながら、どこかでそれを目的のように意識し、
継続に達成感を持つようになり、自己満足してはいなかったか。
継続日数が増える毎に、己の慢心を増幅してはいなかったか。
唾棄すべき状態であった自分が、人としての自身を取り戻す
一歩一歩である事を忘れていたのではないか。

今現在のありのままの自分自身を見据えて、前を向くなら、
必然的に謙虚であらねばならない。いや、自然に謙虚に
ならざるを得ない。

抑鬱状態に陥っているのかとも疑ったが、仮にそうだとしても、
どうしようもなさにこれほど心身ともに懊悩した事はない。
ただ単に飲まない日々を積み重ねていく中では到底気付く事の
できないことに気付かせてもらったのかもしれない。
いや、継続があったればこそ、この気付きの地点にまで
来たという事か。

今、断酒の原点を、ようやく過去から現在に新たに置き直す
時を迎えたような気がしている。




あなたへ

2008年07月12日 | ノンジャンル
しばし、現実から離れる事ができて、楽になりましたか?

周りの期待も、周りの心配も、周りの想いも、願いも全てを
投げ捨てて、ふっと力を抜く事ができて、ホッとできましたか?

悔しさや、情けなさ、どうしようもなさに、向き合えましたか?

全部わかっているのに、どうしてこんなに不甲斐無いのか、
考えましたか?

ありのままの自分でいつづけることが、私たちにとってはどれほど
難しい事であるかを、再び理解しましたか?

目覚めた朝は、いつもの朝でしたか?
過ごした一日は、いつもの一日でしたか?
何かが、すこしでも変わりましたか?
今夜は、どんな夢を見るのでしょうか?

あなたの望みは何ですか?
どうしようもない自分を、どうしようもないと思っていませんか?

ありのままの、あるがままの自分は太陽です。
それを曇らせ、どうしようもなくさせているのが病です。

病なら治して、ご自分の持つ光を周りに向けて輝かせてください。
雨の日も曇りの日も、その遥か上では、太陽も月も星も、
変わらずに輝いているのです。




飲めない淋しさ

2008年07月06日 | ノンジャンル
現在、酒席といえばほとんどが仕事がらみで、
プライベートでは法事や帰省、いわゆる冠婚葬祭がごくたまに
ある程度である。

その中で飲めないことの淋しさを感じることはもうほとんど
なくなったが、やはり息子や娘のこれからの成長の中で、
飲めたらなぁと思うことはいろいろとあるに違いない。

それなりに手も掛からなくなって、カミサンも一息つく
ことが多くなってきたのか、スポーツクラブから帰って、
夕食前に缶チューハイをプシュッ。
わざわざ「お酒」と表示しなければならないほど、今の
チューハイなどの缶のデザインは、ジュースと変わらない。

「やっと夫婦でゆっくりお酒を飲める、楽しい時期に、旦那が
飲めないなんて、私って可哀想。」という、
カミサンの言葉に、一瞬言葉を失った。

本音を言えば、家にアルコールの含まれたものを一切置けない
家庭もあれば、自助グループに常に本人と共に参加して、
ようやく本人の断酒を継続している家族もある。
それに比べれば、本人の前ででもお酒を飲める我が家は
よっぽどましじゃないかという思いが一瞬頭をよぎった。

だが待てよ、本人に向かって、こういうことが言えるまでに
なってきたということか。であれば、喜ばしい事なの
かもしれない。

「こういう時はね、ごめんねって言ってればいいのよ。」
「そのあたりで、度量が見えるものなの。」とは、カミサンの
厳しいお言葉。。。

「あのな、俺はもういつでもどんなときでも車を運転
できるんだから、どこにでも連れて行ってやれるし、お前は
食事もお酒も楽しめばいい。」

「そっか、まあ二人で飲めないのは淋しいけど、どこにでも
行けるね。」と、納得した様子。
一人の食事も、一人で飲むお酒もおいしくはないだろう。
飲めない自分だけが淋しいわけではないのである。

ということで、私は、昔で言う「メッシー君」、
「アッシー君」となって、今後、カミサンに償いをする
こととなってしまったようである。

私の前でお酒を飲めない。飲んでいた頃の話をしない。
愚痴や不満を言わない。これまで、いろいろと気を遣って
きたであろう彼女のこんな今日の一コマは、家族の回復
ということの一側面であるかもしれない。



等身大

2008年07月05日 | ノンジャンル
さて、一生を終えていよいよ自分の人生の総決算の審判が、
閻魔大王の前でおこなわれる時、在世で身につけた衣服や飾りは
剥ぎ取られ、地位や立場も斟酌されず、容姿容貌も関係なく
あくまでも一人の赤裸々な人間として鏡の前に立たされ、その人が
生きている間にしてきた善行、悪行が全て映しだされる。

生きている間に、何を考え、何を口にし、何をしてきたのか。
善悪共に全てが映し出された後、善行が多いのか、悪行が多いのか
清算されて審判の結果が出る。悪行が多ければ地獄行きとなる。

あくまでも、生きている間の心がまえを正す意味での
おとぎ話でもある。現在の赤裸々な自分を見つめる上では大切な
観点であろう。

地位、立場、金、権利、容姿、容貌、装飾など、自分の身にまとう
ものを一切剥ぎ取り、裸一貫となった自分に、さて何が残るかと
考える事は、等身大の自身の絶対値を知るという事で、
非常に意義深い。
その人の存在が後世に語り継がれるのは、その人の身を装飾した
ものではなく、思想、言葉、足跡に裏付けられた精神性なのである。
身を飾るものは焼かれたならば灰塵に帰し、その身さえも滅する。

しかるに浮世では相変わらず比較、相対的な視点ばかりに
囚われて、格差社会、勝ち組、負け組などという極端且つ
低劣な分類をしたがる。
バブルの時代に丸金(金持)、丸ビ(貧乏)という稚拙な分類を
していた頃とあまり変わらないところを見れば、さほど精神性の
向上が見受けられない。

相対的なものの見方においては自分の位置は見えにくい。いかなる
位置にあっても、自分より上はあるし、下もある事に変わりは無い。
比較というのはそういう事である。
外面的に様々な装飾を身につけ、人よりも上にと志向する事ほど
虚しい事はない。自身の内面が貧しければ、幸福を求めながら、
幸福を実感することはできない。
相対的な視点に囚われている間は、その精神性は常に
飢餓状態にある。

但し、他者との比較という相対的視点ではなく、自己の内面の
相対的比較というものは、過去から現在に至る自身の軌跡の
上での事であり、未来へと続く道を進む上で大きな指針と
なるであろう。

等身大の自分、赤裸々な自分、絶対値としての自分を
見据える時、いつでもそこを原点として、向上していく
事ができる。
今現在の自分が、一歩前進すれば、その分確かに満足感を得て、
更なる前進を志向していけるのである。
実はその前進の真っ只中に、満足と幸福は存在している。

翻って、自身の現在の絶対値、つまり赤裸々な姿となった時に
何が残るかを考えるに、あまり大したものは残らないようである。
命ある限り、前へ進んでいく中で一つ一つ善き心の蓄えを
増やしていくしかないようである。

願わくは、閻魔大王に会い見える時には臆する心無く、胸を張って
堂々とその審判を仰ぐ事ができる自分であれよと、思うのである。