ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

折り返し

2008年07月01日 | ノンジャンル
早いものでもう7月に入り、今年も半分を過ぎたことになる。
なんだか、何をしていたんだか思い出せないほど慌しくも
あっという間の半年である。

ここのところ加速度的に月日の流れを早く感じるのは、
歳のせいか。自身の寿命は知るところではないが、折り返し
地点はとっくに過ぎているだろう。
あと15年もすれば、一巡り(還暦)と考えれば、
信じられない思いである。

人の生老病死のうち、生を享けた以上、死は必定だが、
病と老いも避けられない。病とはまだ闘えるものの、
老いについては、如何ともし難い。病も老いも生きる以上は、
不可分な事として受け入れ、うまく付き合っていくしか
なさそうである。


しかしながら、今、生き永らえているからこその感慨であり、
命を落としていれば、それはそれまでのことであった
わけであり、いつ死ぬかを知らないで生きていることには
変わりはない。

明日をも知れないといいながら、今日と変わらぬ明日が
来ることを、至極当然として考えている。
人間、本当の意味で変わるためには、自分がいつ死ぬかを
知った方が良いのかもしれない。

その方が、与えられた限りある命をもっと真剣に生きる
ことが出来るのではないか。

いつかは死ぬという定められた事をまるで意識すらして
いなかった若い頃。
その頃は、今とは比べものにならぬほど時間はたおやかに
流れていた気がする。むしろ時間を持て余してもいた。

加速していく時間の早さを感じるようになって思うのは、
自分の死期を覚る感受性だけは、失いたくないという
事である。
その日がいつかは知れず、その時を迎えて初めて知る
というのは、どうも耐えられない。

出来得るなら、身の周りや、気掛かりな事を整理して、
さっぱりとした思いでその時を迎えたいが、突然の事故の
場合もあり、災難の場合もあるのだから、難しいことでは
あるけれども、日頃から臨終只今に在りの精神で
事に処するべきか。

とはいえ、休日前の夜にぐっすりと眠ることを楽しみに
しているようでは、この精神は根付いてはいない。
今日を精一杯頑張りながら、明日もあると考えて
生きている。

明日があると信じているだけで、現実には自分の明日は
ないかもしれない。だが、明日は必ずある。
今日を生きるのは今日のためではなく、明日のためである。
自分がもういないかもしれない明日のためである。
人として生まれた尊さはその辺りにあるのかもしれない。

一年のうちの半分が過ぎたとはいえ、残りの半分は、
過ぎた半年とまるで異なる半年となる。
人の一生もまた折り返し地点を過ぎたとはいえ、それまでの
道とはまるで違う新しい道を行くのである。

明日のために、また新たな一日を開始しようではないか。