ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

希少価値

2008年07月23日 | ノンジャンル
物の豊かな時代にあって、価値を生むものは、数に限りがある
もののようである。
誰しも「限定品」と聞くと手に入れたいと思うし、だからこそ、
残り僅かだとか、数に限りがあるだとかの常套文句が、
販売においては有利に働く。

どうやら人は限りのあるものに惹かれ、価値を置くものと
見える。
世界に数個しかないもの、誰も持っていないもの、
プレミアつきのものなどなど。

どちらかというと装飾物等にあまり興味がない私にとっては、
オークションなどで高値のつく絵画や彫刻、陶器や骨董品
などには興味がない。

ただ、それらの歴史的背景や、作成に至るまでの経緯、
完成品の仕上がりの鑑賞という点には大いに興味があるが、
高いお金を出してそれらを収集し、自宅に飾って
満足するような趣味はない。

実用性、シンプル製、自然さを重視し、好むので、博物館かと
思われるようなごちゃごちゃした部屋は、見ていて
うんざりする。
ひとつの部屋には、置物なら一点、絵画も一点、そして花か
観葉植物があれば十分である。


ところで、不思議に思うのは、なぜ自分で作ったり、
描いたりしないかということである。
彫刻であろうと、絵画であろうと、自分で製作すれば、
それはすなわち世界でたった一つの作品であることに
変わりはない。

売りたいとなれば話は別だが、自宅に飾っておく分には
何の支障もない。これほど希少価値の高いものは
ないではないか。

さらに話を突っ込むと、自分という存在は、この世でたった
一人の存在であり、人間という分類はできても、それぞれ
まったく異なるのである。
これほど物については希少価値を認めながら、人に即すると
すぐに人間という分類の中でとらえて、その世界にひとつ
という希少価値を無視するのは一体何故なのか。

物質文明というものは、個々の生命よりも物質を尊び、
人を置き去りにしてしまったが故に、人の心の中に本当の
希少価値を自覚させることをないがしろにさせて
きたのである。

その結果、今ではその人の存在自体を尊ぶことが無くなり、
人をも物と同じく、どれほどその人に希少価値があるかを
機能的に測る視点しか持ちあわせていない。

簡単に人を傷つけ、殺し、自分さえ傷つけ殺してしまう
今の世の乱れは、先人が求めた豊かな物質文明のもたらした
副作用である。

喜びと悲しみは表裏一体で、喜びを求めれば悲しみが必ず
付きまとうものである。
自身の尊さを知り、他人の尊さを知り、皆が幸せに暮らせる
ようにと努力する中で得られる喜びは無上であり、
実はその努力の中に喜びは滾々と湧き上がっている。
その喜びは何にも代えがたい自身の喜びであるが、喜び自体を
求めたところで詮がない。

話が硬くなった。
我が家には有名な画家の絵画など一点もない。
引越しの時に頂いた、ギリシャの白い町並みの風景画が一点、
リビングを飾っている。あとはほとんどがベランダと
リビングに置かれている観葉植物が飾りといえば
飾りであろう。

ただ、息子が嫌がるので飾ってはいないが、私のお気に入りの、
世界でたった一枚の絵がある。
息子が幼稚園時代に、動物園へ行って描いたカバの絵である。
初めに見た時は、何がなんだかわからなかった。
だが話を聞いて改めて見直すと、画用紙いっぱいにカバの体が
圧倒的な迫力で描かれ、その体の脇に小さな魚が数匹
描かれている。

その魚の小ささが、カバの体をよりいっそう大きく見せている。
間近でカバを見たときの、息子の驚きと感動がそのまま
一枚の絵に存分に表されている。
親バカで結構。私の大好きな、しかも世界で一枚しかない
大切な絵なのである。
いつか飾ることができる日を楽しみにしている。