ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

等身大

2008年07月05日 | ノンジャンル
さて、一生を終えていよいよ自分の人生の総決算の審判が、
閻魔大王の前でおこなわれる時、在世で身につけた衣服や飾りは
剥ぎ取られ、地位や立場も斟酌されず、容姿容貌も関係なく
あくまでも一人の赤裸々な人間として鏡の前に立たされ、その人が
生きている間にしてきた善行、悪行が全て映しだされる。

生きている間に、何を考え、何を口にし、何をしてきたのか。
善悪共に全てが映し出された後、善行が多いのか、悪行が多いのか
清算されて審判の結果が出る。悪行が多ければ地獄行きとなる。

あくまでも、生きている間の心がまえを正す意味での
おとぎ話でもある。現在の赤裸々な自分を見つめる上では大切な
観点であろう。

地位、立場、金、権利、容姿、容貌、装飾など、自分の身にまとう
ものを一切剥ぎ取り、裸一貫となった自分に、さて何が残るかと
考える事は、等身大の自身の絶対値を知るという事で、
非常に意義深い。
その人の存在が後世に語り継がれるのは、その人の身を装飾した
ものではなく、思想、言葉、足跡に裏付けられた精神性なのである。
身を飾るものは焼かれたならば灰塵に帰し、その身さえも滅する。

しかるに浮世では相変わらず比較、相対的な視点ばかりに
囚われて、格差社会、勝ち組、負け組などという極端且つ
低劣な分類をしたがる。
バブルの時代に丸金(金持)、丸ビ(貧乏)という稚拙な分類を
していた頃とあまり変わらないところを見れば、さほど精神性の
向上が見受けられない。

相対的なものの見方においては自分の位置は見えにくい。いかなる
位置にあっても、自分より上はあるし、下もある事に変わりは無い。
比較というのはそういう事である。
外面的に様々な装飾を身につけ、人よりも上にと志向する事ほど
虚しい事はない。自身の内面が貧しければ、幸福を求めながら、
幸福を実感することはできない。
相対的な視点に囚われている間は、その精神性は常に
飢餓状態にある。

但し、他者との比較という相対的視点ではなく、自己の内面の
相対的比較というものは、過去から現在に至る自身の軌跡の
上での事であり、未来へと続く道を進む上で大きな指針と
なるであろう。

等身大の自分、赤裸々な自分、絶対値としての自分を
見据える時、いつでもそこを原点として、向上していく
事ができる。
今現在の自分が、一歩前進すれば、その分確かに満足感を得て、
更なる前進を志向していけるのである。
実はその前進の真っ只中に、満足と幸福は存在している。

翻って、自身の現在の絶対値、つまり赤裸々な姿となった時に
何が残るかを考えるに、あまり大したものは残らないようである。
命ある限り、前へ進んでいく中で一つ一つ善き心の蓄えを
増やしていくしかないようである。

願わくは、閻魔大王に会い見える時には臆する心無く、胸を張って
堂々とその審判を仰ぐ事ができる自分であれよと、思うのである。