ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

飲めない淋しさ

2008年07月06日 | ノンジャンル
現在、酒席といえばほとんどが仕事がらみで、
プライベートでは法事や帰省、いわゆる冠婚葬祭がごくたまに
ある程度である。

その中で飲めないことの淋しさを感じることはもうほとんど
なくなったが、やはり息子や娘のこれからの成長の中で、
飲めたらなぁと思うことはいろいろとあるに違いない。

それなりに手も掛からなくなって、カミサンも一息つく
ことが多くなってきたのか、スポーツクラブから帰って、
夕食前に缶チューハイをプシュッ。
わざわざ「お酒」と表示しなければならないほど、今の
チューハイなどの缶のデザインは、ジュースと変わらない。

「やっと夫婦でゆっくりお酒を飲める、楽しい時期に、旦那が
飲めないなんて、私って可哀想。」という、
カミサンの言葉に、一瞬言葉を失った。

本音を言えば、家にアルコールの含まれたものを一切置けない
家庭もあれば、自助グループに常に本人と共に参加して、
ようやく本人の断酒を継続している家族もある。
それに比べれば、本人の前ででもお酒を飲める我が家は
よっぽどましじゃないかという思いが一瞬頭をよぎった。

だが待てよ、本人に向かって、こういうことが言えるまでに
なってきたということか。であれば、喜ばしい事なの
かもしれない。

「こういう時はね、ごめんねって言ってればいいのよ。」
「そのあたりで、度量が見えるものなの。」とは、カミサンの
厳しいお言葉。。。

「あのな、俺はもういつでもどんなときでも車を運転
できるんだから、どこにでも連れて行ってやれるし、お前は
食事もお酒も楽しめばいい。」

「そっか、まあ二人で飲めないのは淋しいけど、どこにでも
行けるね。」と、納得した様子。
一人の食事も、一人で飲むお酒もおいしくはないだろう。
飲めない自分だけが淋しいわけではないのである。

ということで、私は、昔で言う「メッシー君」、
「アッシー君」となって、今後、カミサンに償いをする
こととなってしまったようである。

私の前でお酒を飲めない。飲んでいた頃の話をしない。
愚痴や不満を言わない。これまで、いろいろと気を遣って
きたであろう彼女のこんな今日の一コマは、家族の回復
ということの一側面であるかもしれない。