ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

相見える

2008年06月17日 | ノンジャンル
以前にも書いたが、私が大学を卒業して就職した頃は、
ワープロが世に出だした頃である。

もう23年も前のことだ。その頃の通信手段というのは、
手紙、電話、ファックス、電報ぐらいで、海外では
ファックスの普及もまだ限られており、仕事でも通信手段と
いえばレター、電話、電信(電報)が主流であった。
ファックスも今ほど鮮明なものではなく、視力が良ければ、
かえって読みづらいほどであった。

オフィスでは電話がひっきりなしに鳴り、その電話商談の
ざわめきで自分の電話が聞こえないくらいであり、
文書作成に使う手動のタイプライターの音やら、入電、
出電の音、コピー機の音、計算機を叩く音などが入り乱れ、
喧騒と呼ぶにふさわしい職場環境であった。


今、ほとんどの事務所では一人に一台PCが整備され、
交信はもっぱらメールで、ファックスもPCから送信、
表計算ソフトのおかげで計算機を叩くこともまれになり、
文書の電子化でコピーをとることも少なくなった。

入社当時からすれば考えられないほどの静かな
オフィスとなり、仕事に関係のない話も昔は結構大声で
話していても気にならなかったが、今では声を潜めないと
異常に目立ってしまう。

テレビ電話などは、一昔前なら憧れの先端技術であったが、
携帯電話やPCが普及すると、これもなんでもない普通のこと
となってしまった。
いまや同時中継でテレビ会議、ネット会議が行われ、わざわざ
出張したり、一堂に会したりする手間も時間もいらない。

一方、交信の便利さがどんどん進む中で、反対に人間同士の
関わりが浅薄になってきた感がある。
なんとなく追い立てられて、迅速な対応ばかりを迫られ、
交信が事務的になる中で、やはり変わらず必要なことは
相手の声を聞く、相手と向かい合って、話をするという
ことである。
声を聞く電話、面会して話をするということは、人との関わり
においては基本であり、どれほど技術が進もうとも
変わるものではない。

テレビ電話で十分済むように思えるかもしれないが、相手の
もとへ足を運び、顔をあわせて話をすることには、表面に
見えることだけではない、非常に意味深長なものがある。
単に互いに顔が見える、声が聞けるということだけでは
まったく足りないものを、相手と実際に相見えることで補い、
互いの関係を高めることができるのである。

今後メディアがどれほど進化しようとも、人の声を聞く
電話と、人に直接相見えるということは、永遠に人との
関係において基本をなすものであり、なくなることはないと
考えている。
常に顔をあわせ、直接話ができる人との間でさえ、誤解や
葛藤や行き違いがあるのである。
いかにメディアが発達したところで、交信だけで本当に
友好的な人間関係を築けるものではない。

膨大な数のメールに対応する、どちらかといえば処理するに
似たことで忙殺されていると、ついつい、根本的に重要な
ことが疎かになってしまう。
人は互いの関係の中でしか生きていけない。
であるならば、その互いの関係の根本を忘れてはならないと
思うのである。


自分を生きる

2008年06月15日 | ノンジャンル
人というのは、いくら綺麗事を並べていても基本的には己の
物質的、精神的欲望を第一義としている。

善い悪いではなくて、それが本能的なものであり、生命の
存続において必要不可欠なものでもある。

ただ、人はその欲望を昇華させ、他人のために尽くし、他人の
喜びを自分の最上の喜びとして充足できる可能性も
持ち合わせている。

世の中で偉人として尊敬されるものは全て、本能的な己の欲望を
昇華させ、無私利他の輝ける人生の時を持っている。

自身の名聞名利のために慈善に尽くすものと、利他を自身の
喜びとし、嬉々として他人に尽くすものとでは、表に現れる事象は
同じに見えるが、その内実には雲泥の差がある。

自分を他人よりも高い存在として認識することに喜びを見出すのか、
他人の喜びを自身の喜びとして幸せを感じるかの違いを思えば、
その差は歴然としており、周りもその差を敏感に感じ取る。

ところで、痛ましい話であるが、自殺者の数が減らない。
交通事故死者の3倍以上にもなる人々がこの国では自殺している。
先進国をリードする国としては恐るべき数字である。

本能的な生存欲をさえ凌駕してしまう苦悩がそれほど蔓延して
いるという事に他ならないが、反面、その生存欲自体が減衰
しているとも考えられる。
つまり物質の豊かさの中で、生きる力自体が反対に減衰して
きたという事でもある。

悲嘆や苦悩や困難に直面した時に、安易に死によってその
辛苦から逃れようとするのは、せっかくの人生の醍醐味を
味わう機会を自ら失う事になる。

永遠に続くかと思われる苦しみも、生きて前へ進む限り、
明けない夜が無いように、頂上の無い山がないように、
必ず夜明けの光を見、頂上に立つ無上の喜びを感じる時が
来るのである。

自殺は善悪で言えば悪と断定する。命の摂理が絶えず前進
していくものである以上、それを自ら断絶せしめることは
悪である。人間いつかは死ぬ。与えられた寿命の長短ではなく、
己の成すべき事を成すべく、生きて生き抜く事が最も肝要である。

あと一歩でゴールであっても頂上であっても、歩みを止めれば
それまでの労苦は無に帰す。
たとえ途中で倒れたとしても、前に進む気構えさえ失わなければ、
全てが無駄にはならない。
いずれも、表層的には同じように見えるが、その実は全く異なる。

自分を犠牲にして他人を救うということは、言葉で聞くと
偽善的で、どこと無く胡散臭さが漂う。
不幸な人間が他人の幸せを願えるのか。共に幸せであろうと
願うのが精一杯で、ともすれば、人の不幸を見て、自分の幸せを
感じることが多いのではなかろうか。

子供の頃にニュースを見て衝撃を受けた事がある。外国での
災害のニュースで、泥流に飲まれそうになっている男女に
ヘリから救出ロープが降ろされる。救出は一人ずつしか
出来ない。二人の体力は限界に達している。

男性は、最後の力を振り絞り、ロープをしっかりと女性に
巻きつけヘリにOKサインを出す。
女性が引き上げられていく姿を見ながら、ついに力尽きた男性は
そのまま泥流に飲みこまれて見えなくなっていく。

その命をかけた行為そのものにも衝撃と共に感動を覚えたが、
今尚忘れられないのは、その男性が泥流に飲みこまれていく
直前に見せた笑顔である。
私は、人間とはかくも崇高な存在となれるものかと、魂を
揺さぶられた。この一点で、私は人間の可能性というものは
計り知れない事を信じられるようになった。

彼は自らの命を断ったのか。犠牲となって人の命を救ったのか。
誰のために。その女性のためか。或いは自分のためか。
今でもこの場面を思い出すたびに考えさせられる。
彼は、自分の命を生き切ったのだ。今はそう感じている。

どうか、誰しもが自らの命を生き切ってもらいたい、
また、自身もそうありたいと願ってやまないのである。



よもやま話

2008年06月14日 | ノンジャンル
偽札

お酒を飲みに行くお金欲しさに、妻の財布から10万円を抜き、
替わりにカラーコピーで作った偽札を入れておいた男が、偽造の
罪で逮捕された。妻が歯医者で支払いをしたのち、その歯医者で
気付いたらしい。支払いの時に妻は気付かなかったのか。
いやいや、それよりも飲むためには手段を選ばないこの男、
病気ではないのかと疑われる。

格差社会

この国で格差社会とは失笑を隠せない。その日の糧にも苦労し、
帰るべき家も無く、着るものも満足に無い中で浮浪の生活を
強いられている人がどれだけいると言うのか。
この国では、働けずとも人として最低限の生活は出来るのである。
貧富の差という事ではなく、普通の生活と、豪奢な生活の差という
ことだけなのである。

勝ち組負け組

比較という相対的なものの見方をすれば、いかなる立場にあっても
それより上も下もあるのである。
一定基準より上を勝ち組、下を負け組というのなら、
その基準は何か。
物質主義の社会においては、こういう考え方が時に蔓延する。
今を生きる本人が、幸せを感じているのかどうかが問題であって、
いくら周りが羨むような生活をしていても、本人が満足も感謝も
幸せも感じていなければ詮が無い。

ふたり

恋はわがまま、愛は思いやり、恋愛は抱擁、結婚は妥協、
離婚は主張、浮気は本能、不倫は文化?じゃなくて打算、
夫婦は両翼両輪。

仕事

仕事は楽しくなければ続かないが、生活の為に仕方なくする
仕事は淋しい。どうせするなら、楽しいものにしていく他は無い。
今している仕事が楽しければ幸せ、そうでなければ、それなりに
楽しくしていけたら良い。
まあ、私の場合は、楽しさ半分、嫌気が3分、うんざりが2分
というところだろうか。

タスポ

タバコのパスポート。随分早くから申し込んで用意していた。
新し物好きなので、わざわざ自販機で買っている。
お金をチャージしておけば、カードをかざすだけで買えるので、
便利といえば便利である。
面倒だから禁煙しようとは微塵も思わなかったが、今度は
一箱千円に値上げしよう案が出てきたという。
もしそうなったら。。。
値段的に変わらない、シガリオ(ミニ葉巻)にしようか。
どちらにしても禁煙の発想はないようである。

アルパス

アルコールのパスポート。
申し込み時に、診断書を添付し、肝機能が正常で、依存症では
ないことを証明せねばならない。
自販機のみならず、酒販店でも必ず提示しないと購入できない。
まあ、どれほどの効果があるのかは定かではないが、
タスポと大差ないであろうから、同時に導入検討しても
良かったかもしれない。

結局、よもやま話とは言いながら、お酒の話題で始まって、
お酒の話題で終わる。
ALQUITなブログだから、仕方が無い。





社会と人間

2008年06月13日 | ノンジャンル
また、硬いタイトルになってしまった。

先日の秋葉原での殺傷事件についてである。
17人を無差別に殺傷したその動機はいまだ明確なものとは
なっていないが、まず思ったことは、この犯人にとっては、
ゲームだったのだということだ。

殺人ゲームの中で、より高いスコア、記録を出すという
感覚があったに違いない。
前例にはないより多くの人を殺し、自身がそのトップ
スコアの記録保持者となる。
もはやこの人間にとっては、命の尊厳というものはまるで
虚しい観念でしかない。

マスコミではワンパターン的に、犯人の生い立ち、履歴、
現状などを追い、その事件の背景を探ることで、犯人の
動機や凶行に至る経緯を明らかにしようとしているが、
本質を見ないで、起こってしまった表象のみを追うあまり、
犯人があたかも現代社会の犠牲者であるかのような議論を、
したり顔で展開している様子にはあきれてしまう。


社会は人が作るものである。そして社会は、人を育み、
守るものである。人が守られず、健全に育まれないとすれば、
それは社会の責任であり、その社会を作る人の責任である。

人が基本であり根本であることを忘れて、いくら議論した
ところで、結局は分からないで終わってしまう。
100年経てば、今この世に存在する人間はほぼいなく
なってしまう。社会もまた、時代とともに移り変わっていく。
そしてその移り変わりは、人間の移り変わりを反映して
いるのである。

今、最も大切なことは、人が、人にとって根本的な
問題である、生と死というものを改めて見つめ直すこと
ではないだろうか。

人がこの世に生まれ出でてくる時は、一人であって
一人ではない。少なくとも、母親の生死をかけた苦しみと
希望に包まれて誰しも生まれ出る。
覚えている人はいないだろうが、母親の苦しみの声も、
自身が外の世界へ出る苦しみも、そして再び柔らかで
暖かい母親の胸に抱かれる安堵の思いも、自分自身が
経験しているのである。

そして、自身が親になって新しい命を腕に抱いたとき、
身体が覚えているその体験を自然と思い出し、
このかけがえのない新しい命と、自分自身も同じで
あることを実感して、歓喜の涙があふれるのだ。

人はそうして、生まれ出てくる。自分も、我が子も、
愛する人も、この世で会うことのない他人でも、皆等しく
尊い命であり、それでいて、それぞれ一つ一つの
かけがえのない命であることを、学ぶのではなく、
思い出すのである。

物質至上主義の世の中で、人を物と同じように捉え、扱い、
考えている観念の中では、その尊い誕生を思い出すのは
難しい。
まずは家庭で、教育の場で、地域で、そして社会でこの最も
根本的なことを不変の原理原則として、次代を担う人間を
育んでいかねばならない。

翻って、死については、生と同様に最も大切な根本問題で
あるにもかかわらず、これほど意識されないでいるものもない。
この世に生を享けたいかなるものも決して免れる事は無い
死という決定された事に対して、あまりにも無頓着であるような
気がしてならない。死があるからこそ、生は尊い。
生を思わば、死をまず思うべきである。

人の誕生に接する事も、少子化の現代では少なくなってきている。
核家族の中では、身近に死というものに接する機会も、
その機会によって考える事もあまり無いようだ。

つい昨日まで共に笑って言葉を交わしていた人が、口も聞けず、
目も開かず、動かなくなって、冷たく硬くなる。
お別れをした後は、灰と共に白い骨となる。その骨を見て、考え、
学ぶ事が少ないというのは本当に問題であろう。

死というものは、生きている間に経験が出来ないのである。
それを経験する時にはもうこの世には存在しない。
だからこそ、人の死を、厳粛に見つめなければならない。

人が社会を作り、社会が人を育み、その育まれた人が次の
社会を作っていき、その社会がまた人を育む。
いつの時代においても、根本は人間である。人間のための
社会を作る以上、社会に対して人間はどこまでも責任を
持つべきである。

人間がゆがみ、社会がゆがみ、その社会にゆがんで育まれた
ものが、最も根本的なことを忘れて罪を犯すとき、
それは社会の責任であり、すなわちその社会を作った
人間自身の責任なのである。
「現代社会の犠牲者」などと、まるで自分自身には関係の
ない他人事のような認識で今回の事件を取り扱うべきでも
ないし、考えるべきでもない。

まことに悲惨な事件で、遠からず犯人の極刑は免れることは
ないであろうが、それで終わりではない。われわれが、
この事件を一狂人の起こした凶行であるとだけ捉えて
いたのでは、何も変わらないことになるであろう。

そして、この犯人においても、刑に処せられてそれで
終わるわけではない。
人を撥ね、人を刺し、命を奪うという実体験をした以上、
その最も重い罪は自身の命に刻まれてしまっている。
その刻まれた傷が癒えるのに、一体、何万年、いや、何億年
苦しまなければならないのだろう。

彼を赦すことのできる存在はもうこの世にいない。
処刑、社会的制裁を受けることは、現社会でのルールに従った
懲罰に過ぎない。
罪を償うということは、彼自身が今後生死を問わず、
永きに渡って17人分以上の苦しみに悶え続ける
ということなのである。

命の重さを本当の意味で知ることは、自身の命の誕生の
体験を喚起し、人の死に接して、生を思い、死を考えていく
中で少しずつ自身の命に刻まれていくものである。
観念的な認識や理解だけでは、いかんともし難いことは、
現在の凶悪犯罪の多い世相が実証しているではないか。

理論と知識ではなく、自らの生の実感と、人の死を直視する
ことで得られる生への感謝によって、限りある命の尊さを
認識するならば、人の命を決して奪ってはならない、
また自らの命を絶ってはならないという、人としての本然的な
覚醒となるはずである。

われわれは、今一度、その人としての原点に立ち返るべき時に
あるのかもしれない。



秘めた想い

2008年06月08日 | ノンジャンル
昨日は週に一度の通院日でした。

帰国後病院へ直行したので、ゆっくりしようかとも思いましたが
リズムを取り戻す為にも出掛けました。

出張帰りの翌日は、疲れがどっと押し寄せます。
先生も「疲れが出てるねぇ」と、しげしげ私の顔を
見ておられました。

今回の出張は、断酒初期の頃であれば、精神的にも肉体的にも
到底無理であったろうと思われます。
それにしても、回復の度合いに応じて、様々な課題もハードに
なっていくのは不思議なものです。

ところで、点滴の処置を受けていた時に、とある患者さんに
向かって、看護師さんが「○○さん、お久し振りですね。」と
笑顔で声をかけられていました。
何という事は無い会話なのですが、ふと違和感を覚えて
目を向けると、笑顔の中に淋しげな陰が。。。

「お元気でしたか?」と、笑顔のまま尋ねられると、
その患者さんは、「失敗しました。3回目です。」と。。。
それには答えずに、注射の処置をして、看護師さんは笑顔のまま
「また、ちゃんと来てくださいね。」と声をかけておられました。

その患者さんも、お酒でやつれた姿でしたが、その姿を見ている
看護師さんの胸中を思うと、やりきれないような気がしました。
再びお酒で痛めつけられた姿を見て、それまで回復を
少しずつでも見守ってきた彼女はどんな想いであったのでしょう。

その心のうちは計り知ることが出来ませんが、それでも笑顔で
見送っていた姿を、なんだかおかしな話ですが、私が申し訳ない
気持で見ていました。

笑顔の裏に秘められた、たまらない想いを垣間見たようで、
何があろうとそんな想いを誰にもさせてはならないと、
改めて肝に銘じました。

家族はもちろんのこと、この病気になって出会った様々な人達は、
私にとっては決して裏切る事の出来ない人達なのです。

飲んでいた頃は、様々な形で家族も人も裏切ったことが
あったでしょう。
それを病気のせいにするつもりはありません。

今、少なくとも病気を知り、自分を知り、生きる責任を
知った上で、見守る人を裏切る事は許されないのです。
いや、そんな自分をもう許す事は出来ないでしょう。

そしてそれが、自身の断酒を支えてくれてもいるのです。