ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

自分を生きる

2008年06月15日 | ノンジャンル
人というのは、いくら綺麗事を並べていても基本的には己の
物質的、精神的欲望を第一義としている。

善い悪いではなくて、それが本能的なものであり、生命の
存続において必要不可欠なものでもある。

ただ、人はその欲望を昇華させ、他人のために尽くし、他人の
喜びを自分の最上の喜びとして充足できる可能性も
持ち合わせている。

世の中で偉人として尊敬されるものは全て、本能的な己の欲望を
昇華させ、無私利他の輝ける人生の時を持っている。

自身の名聞名利のために慈善に尽くすものと、利他を自身の
喜びとし、嬉々として他人に尽くすものとでは、表に現れる事象は
同じに見えるが、その内実には雲泥の差がある。

自分を他人よりも高い存在として認識することに喜びを見出すのか、
他人の喜びを自身の喜びとして幸せを感じるかの違いを思えば、
その差は歴然としており、周りもその差を敏感に感じ取る。

ところで、痛ましい話であるが、自殺者の数が減らない。
交通事故死者の3倍以上にもなる人々がこの国では自殺している。
先進国をリードする国としては恐るべき数字である。

本能的な生存欲をさえ凌駕してしまう苦悩がそれほど蔓延して
いるという事に他ならないが、反面、その生存欲自体が減衰
しているとも考えられる。
つまり物質の豊かさの中で、生きる力自体が反対に減衰して
きたという事でもある。

悲嘆や苦悩や困難に直面した時に、安易に死によってその
辛苦から逃れようとするのは、せっかくの人生の醍醐味を
味わう機会を自ら失う事になる。

永遠に続くかと思われる苦しみも、生きて前へ進む限り、
明けない夜が無いように、頂上の無い山がないように、
必ず夜明けの光を見、頂上に立つ無上の喜びを感じる時が
来るのである。

自殺は善悪で言えば悪と断定する。命の摂理が絶えず前進
していくものである以上、それを自ら断絶せしめることは
悪である。人間いつかは死ぬ。与えられた寿命の長短ではなく、
己の成すべき事を成すべく、生きて生き抜く事が最も肝要である。

あと一歩でゴールであっても頂上であっても、歩みを止めれば
それまでの労苦は無に帰す。
たとえ途中で倒れたとしても、前に進む気構えさえ失わなければ、
全てが無駄にはならない。
いずれも、表層的には同じように見えるが、その実は全く異なる。

自分を犠牲にして他人を救うということは、言葉で聞くと
偽善的で、どこと無く胡散臭さが漂う。
不幸な人間が他人の幸せを願えるのか。共に幸せであろうと
願うのが精一杯で、ともすれば、人の不幸を見て、自分の幸せを
感じることが多いのではなかろうか。

子供の頃にニュースを見て衝撃を受けた事がある。外国での
災害のニュースで、泥流に飲まれそうになっている男女に
ヘリから救出ロープが降ろされる。救出は一人ずつしか
出来ない。二人の体力は限界に達している。

男性は、最後の力を振り絞り、ロープをしっかりと女性に
巻きつけヘリにOKサインを出す。
女性が引き上げられていく姿を見ながら、ついに力尽きた男性は
そのまま泥流に飲みこまれて見えなくなっていく。

その命をかけた行為そのものにも衝撃と共に感動を覚えたが、
今尚忘れられないのは、その男性が泥流に飲みこまれていく
直前に見せた笑顔である。
私は、人間とはかくも崇高な存在となれるものかと、魂を
揺さぶられた。この一点で、私は人間の可能性というものは
計り知れない事を信じられるようになった。

彼は自らの命を断ったのか。犠牲となって人の命を救ったのか。
誰のために。その女性のためか。或いは自分のためか。
今でもこの場面を思い出すたびに考えさせられる。
彼は、自分の命を生き切ったのだ。今はそう感じている。

どうか、誰しもが自らの命を生き切ってもらいたい、
また、自身もそうありたいと願ってやまないのである。