王羲之(307-365)東晋の書家です。山東省の名家の出身で、長じて官吏になりましたが、早くして官吏を辞め悠々自適の生活に入りました。当時、まだ成熟していなかった楷書、行書、草書の三体を芸術的に立派な書体に完成させました。<o:p></o:p>
「楽毅論」、「蘭亭序」などが彼の代表作で書聖と言われ、子供の王献之と共に<o:p></o:p>
二王と称されます。<o:p></o:p>
王羲之には七男一女がありましたが、第七男の王献之(344-386)が人物も書も最も優れているとの評判でした。ある時、王羲之の友人の謝安が<o:p></o:p>
「君の書はお父上と比べてどうだね」<o:p></o:p>
と王献之に尋ねました。王献之は答えました。<o:p></o:p>
「もちろん違います。」<o:p></o:p>
謝安はさらに聞きました。<o:p></o:p>
「世間の評判は、まるっきり反対だろう。」<o:p></o:p>
彼は<o:p></o:p>
「世間に何がわかりましょう」<o:p></o:p>
と答えたと言います。<o:p></o:p>
当時、世間では父子の書はよく似ていて、甲乙つけ難いと評判でした。<o:p></o:p>
現在まで残っている法帖を見ると、王献之の方が筆が少し細く、運びも軽いようです。<o:p></o:p>
一見すると王献之の書の方がわかり易いですが、父、王羲之の人柄は<o:p></o:p>
「飄々として浮かんだ雲のごとく、猛々しいことは龍のようだ」<o:p></o:p>
との評価もあり、王羲之の方が今日に至るまでより有名です。<o:p></o:p>
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