新潟県長岡市の花火大会は不肖の郷里の行事ですが、太平洋戦争の直後、戦没者の鎮魂と慰霊を願って昭和22年(1947)に始まりました。長岡は昭和21年8月1日に米軍の空襲により灰燼に帰し、多くの犠牲者を出しました。広島、長崎に原爆が投下される直前でした。長岡も原爆の標的の候補地であったという説もありますが、不肖が今日あるのは、幸運にも長岡に原爆が投下されなかったからです。この長岡が空襲を受けたのは、わが中学(今日の長岡高校)の先輩、山本五十六元帥の真珠湾奇襲作戦に対する報復だと信じられています。その高校の校歌、第一番は下記です。
我が中学のその位置は構は八文字浮島の兜の城と名も高き旧城跡を前に見て峨々たる嶮峰鋸は其の東面に天を指し本島一の大河なる信濃川は其の西に汪洋広野を浸しつつ北海さして流れゆく。
長岡は河井継之助の下で戊辰の北越戦争(1868)を戦い、西軍に敗れて焼土になった事もあり、市民は不屈の復興魂を持っています。正三尺玉(下 写真)を始め、趣向をこらした現代花火はテレビでもよく放映されています。驚いたことに、長岡市が、昔の敵国アメリカのハワイのホノルルと姉妹都市になって、花火師がハワイに渡って友好の花火を打ちあげているという話もあります。
我が中学のその位置は構は八文字浮島の兜の城と名も高き旧城跡を前に見て峨々たる嶮峰鋸は其の東面に天を指し本島一の大河なる信濃川は其の西に汪洋広野を浸しつつ北海さして流れゆく。
長岡は河井継之助の下で戊辰の北越戦争(1868)を戦い、西軍に敗れて焼土になった事もあり、市民は不屈の復興魂を持っています。正三尺玉(下 写真)を始め、趣向をこらした現代花火はテレビでもよく放映されています。驚いたことに、長岡市が、昔の敵国アメリカのハワイのホノルルと姉妹都市になって、花火師がハワイに渡って友好の花火を打ちあげているという話もあります。