山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

「断・捨・離」の過酷さを味わう

2015-03-09 05:52:33 | 宵宵妄話

 4月に人生16度目の引っ越しを行うことを決意したのは、2月の半ば過ぎだったが、そうと決まればその時が来るのをじっと待っていることなどできる筈がなく、自分に係わる書籍類の整理を始めたのは、決めた翌日からだった。もうその日から半月以上が経っており、その整理はほぼ完了している。しかし、この整理に関しては、自分の人生ではかなり上位に位置する苛酷さを味わったように思う。今回は、そのことについて少しく所感等を述べてみたい。

 「断・捨・離」ということばがある。これは4年ほど前の流行語となったもので、今でも人々の暮らしの中に定着しているキーワードではないかと思う。というのも、今の時代では物を慈しんで大切に扱うという考え方は少なくて、大量生産・大量消費の多くの物の中から、ちょっぴり気に入ったものをちょっぴり貯め込むと、たちまち置き場所に困るような狭い空間での暮らしが常なので、「断・捨・離」は、もはや必要不可欠な要素となっている様に思えるのである。

今回の2階への引っ越しに当たっては、今まであまり気にもかけなかった、この「断・捨・離」をキーワードにしなければならないなと思った。オーバーに言えば、我が人生4分の3世紀(=75年間)の間に溜まった数々の宝物を再点検し、それらを無理やりに宝物とゴミとに選別・仕分けするということなのである。今までの暮らしの中で残っているものといえば、それは殆どが宝物に類するものなのであって、ゴミなどにはなり得ないものばかりなのである。しかし、「断・捨・離」というのは、その宝物を更に厳しく吟味してゴミと分けろという悪魔の囁きのようにも思えるのである。

人が物を買うという時には、必ず動機があり、そこには何らかの思いが籠められている様に思う。日常の消耗品だって、その時には何らかのニーズがあったから買い求めるのであって、理由なしにそれを自分のものにするということはないのではないか。まして気に入ったものであれば、動機も強いものとなり、時間が経ってそれが不要となっていても、なかなか捨てるという気にはなれないのだ。だから、宝物となると「断・捨・離」は一段と難しくなる。

私の人生の中では、人間関係などを除いた「物」の世界では、宝物といえば、本の類と少々の小物くらいしかない。私にとっての宝物といえば、それは99%が書籍ということになる。どのような文庫本でも雑誌でも、そこにはその一冊一冊を買い求めた時の思いと喜びが詰まっているのである。さすがに学生時代に出会った本は僅かしか残っていないけど、社会人となって以降に買い求めた本の殆どは、今まで捨てきれずにいて、16回もの引っ越しの度にその数が増して、今では数千冊を数えるほどになっている。リストなど作成していないので、数は判らないのだけど、数千冊以上かもしれない。これを何とかしなければならないのである。

「断・捨・離」というのは、やましたひでこさんという方の提唱が始まりだと聞くけど、元々はヨーガの考え方の断行・捨行・離行に由来しているとか。どうやらこれは禅などの修業の中身と似ている様に思った。座禅の瞑想も様々な物や人などとの関わりを断ち、迷いから離れるという考えが核となっており、ヨーガもその根幹は同じではないかと思った。「悟り」というのは、もしかしたら「断・捨・離」が自在にできる境地を言うのかもしれないなとも思った。

さて、そのような理屈はともかくとして、数千冊を超える我が宝物を一体どこから手をつけ、どのように処分すればよいのか。これはもう、強制的に意識を変えない限りできない仕業(しわざ)である。正気ではとてもできることではない。意識を変えるというのは、普段の暮らしの中では、意識を強めるというよりも狂気に近い意識転換を言うのではないかと自分は思っている。簡単に言えば、狂うほどの意識を持って為さなければ、宝物をゴミと仕分けするなどできることではない。そう思った。

先ずは①これからも読む本②これから読む本③読まなくても見ているだけで安心する本、を優先して残すことにした。捨ててもいいのは①哲学の無いノウハウ本②嫌いな作家の本③読み飽きた慰め本、などを処分することにした。残す本を優先させるのではなく、捨てる本を優先させながら仕分けを続けることにした。そうしないと作業が先に進まない感じがしたからである。しかし、実際に取り掛かって見ると、捨ててもいい本など元々ある筈がなく、当初は段ボール箱一つくらい(=40冊ほど)で止まってしまった。そこから又一つ壁を乗り越えて、もうこれ以上は限界だ!となるまでに「捨」を決めた本の数は、最終的には段ボール箱で11箱分、文庫本も入れると500冊超となった。埃にまみれながらのこの時間は、まさに地獄の狂人となっている思いがした。

ところで本の処分だが、これはゴミとして出すには量が多過ぎるので、ブックオフに持って行くことにした。多少は値のつくものもあるのではないかと思った。以前20冊ほど処分した時には、結構いい値段で買い上げて頂いたことがあるので、少しは回収に役立つのではとの期待もあったのである。結果的には一万円を少し超えたほどのレベルだった。今頃は書籍離れが始まり出し、又一方で印刷物が過剰氾濫している時代でもあるので、本の価値や価格などというのも弾けたバブル経済の直後のような状態なのかもしれないなと思った。今回処分したものを新しくそのまま買い入れたならば、50万円くらいにはなるだろうから、中古本で2%ほど回収できたのは、まあ、良しとしなければならないのかもしれない。そう思うことにした。しかし、それにしても寂しく虚しい。

とにもかくにも、捨て去ったものは早く忘れることにした。残した分は、書斎の本棚の半分を使わせて貰って収蔵することにし、一部は2階の新しく書斎として使う予定の部屋の本箱に収めることにしている。身近に使う本は机の傍に置き、それ以外は離れた元の書斎に置くことにしている。あと何年生きられるのか、その間にどれほど本を読むことが出来るのかわからないけど、もうこれらの残された宝物を「断・捨・離」の悪魔に問う様なことは、二度としたくないなと思っている。

所詮自分は悟れない人間だなと思った。生きるというのは、迷いの中に居て安心しているということを言うのではないかと、今は開き直りの気分でいる。

コメント
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