山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第5回>

2018-05-30 05:48:54 | くるま旅くらしの話

【今日(5/30)の予定】 

道の駅:なみおか →(R7他)→ 青森フェリー乗り場 →(青函フェリー)→ 函館フェリー乗場→(R5)→ 東大沼キャンプ場(泊)

 

【昨日(5/29)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:いなかだて弥生の里 → 埋蔵文化センター・博物館見学 →(R102・K・R7)→ 道の駅:なみおか →(R7) → 三内丸山遺跡探訪 →(R7)→ 道の駅:なみおか(泊)

 <レポート>

 4時半頃の田舎館村の朝は快晴だった。しかし少し気温が高いのか、南西正面に見えるお岩木山は少しボヤケて見えたのが残念だった。ブログを書き終え投稿を済ませた後付近の散策に出かける。田舎館村は、黒石市、弘前市、それに平川市に囲まれた小さな村だけど、山はなく津軽平野の平地を独占しているかのように気候にも恵まれた稔り豊かな田園風景が広がるリッチな村である。それは弥生の昔から々姿だったのだろうかなどと考えながら、1時間ほど歩きを楽しんだ。

 今日は、今まで何度もこの道の駅にお世話になりながら、まだ一度も見学したことが無い隣接する村の埋蔵文化財センターと博物館を訪ねる予定でいる。何故訪ねなかったのか我ながら不思議なのだが、今回どうしてもという気になったのは、このところ日本の古代、とりわけて縄文や弥生或いは古墳時代への関心が自分の中に膨らみ始めたからなのである。田舎館村のこの地はその昔の弥生時代の垂れ柳遺跡というのがあり、これはこの付近を走る国道102号線の道路工事を開始した時に発見された、水田跡なのだった。それが元になっての田舎館村の田んぼアートは有名だが、その遺跡を訪ねる人はそれほど多くはなく、田んぼアートの由来を知る人も少ないのではないか。自分もその一人なのだが、今日はその壁を少し壊して一歩を踏み出したいと思っている。

道の駅:いなかだて弥生の里に隣接する、田舎館村埋蔵文化財センターの外観。田んぼアートの見物に来られる方にはぜひ一度寄って中をご覧になることをお奨めしたい。

 ということで、9時半過ぎに埋蔵文化財センターを訪ねる。かなりスケールの大きな建物の様である。中に入るとガラス張りの床があり、そこに弥生時代の人の足跡が残る水田の一部のレプリカのようなものがあった。それらを覗いていると、受付の女性が近づいて来られて、遠慮深そうに案内をして下さった。幾つか質問をしている内にややこしい内容となった時、もう一人の男の方が替わられて引き続いて説明をして下さった。この方が館長さんで、考古学の専門家であり、とても事情に詳しい方だった。それから延々と2時間半も時間をかけて、気がつくと間もなく正午近くとなる刻限まで様々な古代の暮らしの状況や米作りについてなどのお話を聞かせて頂いた。館内には実物の水田跡が展示されていて、迫力がある。古代のその水田は、現代のそれとは相当に違っていて、大きさはせいぜい畳3~4枚ほどか。少し大きめのものもあって、形も正方形や長方系のものがあり様々なのだが、それぞれに理由があって、そのお話はとても面白いものだった。それらをここに書くのは省略するけど、驚くのは今回の発掘ではこのような小さな田んぼが13ヘクタール(=13町歩)にも亘ってこの地に存在していたということである。勿論今日のような耕作技術や肥料などがあるわけではなく、自然の中で自然のご機嫌を伺いながら少しずつ米作りを進化させていったのだと思うが、この小さな田んぼは、連作の障害を避けるために凡そ5年ほどで順繰りに作付けを変えながら米作りをしていたのではないかというお話だった。往時のこの地は水田だけではなくたくさんの落葉樹があり、どんぐりなど木の実の採集にも恵まれ、また狩猟の獲物も多かったことから、米だけに依存しない豊かな暮らしが成り立っていたのだろうというお話など、遠い遠い古(いにしえ)の人びとの暮らしへの想いは膨らむばかりだった。話は縄文時代へも飛び、何と楽しかったことか。弥生、縄文と一区切りの線引きをして教科書などには書かれているけど、現実はそうではなく、縄文も弥生も混在しながら、人々の暮らしは時間を運んで来ているのである。幾つもの目からうろこの話を伺い、感動しながらお礼を申し上げて館を辞す。帰りには今年の田んぼアートが見られればいいなと思った。

 午後の今日の予定は、青森市の三内丸山遺跡を訪ねることにしている。一日予定を早めて、明日フェリーに乗ることにしたので、泊りは浅虫温泉の道の駅にしようかと考えている。どうするかは遺跡を訪ねた後に決めればいい。というわけで昼食の後、三内丸山遺跡に向かう。

 三内丸山遺跡は東北の縄文遺跡としては大きな話題にもなり、超有名だ。我々も2度ほどここを訪れている。巨大な栗の木で作られた櫓のような塔が復元されており、とても印象深い場所である。しかし、以前訪ねた時は古代にそれほど関心があったわけではなく、野次馬根性の好奇心ばかりだったので、へえ~と思いながらの探訪だった、今回はその時とは少し違って、心構えのようなものができてはいる。14時頃に到着して、早速館内に入り、遺跡の方へ向かう。今日は日射しが強く、暑さも厳しいので、邦子どのは遺跡の方には行かずに館内での見聞だけにするという。至当な判断なのかもしれない。

三内丸山遺跡のシンボルとなっている掘立の巨大建造物の景観。近くの巨大建物は竪穴住居の手法で造られている。謎をいっぱい含んだ遺跡のように改めて感じた。

 一人炎暑の中を遺跡に向かう。先ずは巨大な樹の塔の方へ。近くに巨大な家屋の建造物があり、竪穴住居と同じ技術で造られているとはいえ、これが本当に今から4千年前の存在した建物なのかと、驚くと共に少し疑問を覚えた。その後竪穴住居の建物を幾つか見て回り、大人の墓や子供墓といった墓地などを覗き、又埋め土の丘なども見ながら、あれこれこの地の往古に想いを馳せたのだった。しかし疑問は膨らむばかりだった。午前中に見た田舎館村の垂れ柳遺跡の弥生の水田の時代よりも2千年も前だというのに、これほどの大規模な、どう考えても共同生活を取り込んだ暮らしの場が残っているが解せないのである。狩猟と採集が暮らしの基盤だった縄文時代の中で、定住してこれほどの共同生活の場がつくられるものなのか。栗の樹が暮らしの中では大きな存在だったというのは理解できても、縄文という時代を思うと、今一、まだしっくりしないのである。これは自分の中にまだ縄文とか弥生とかいう古代に関する理解の固定観念が崩れていないからなのだろうと思った。もう少し多くを学ぶ必要があると思い知らされた。遺跡の後は館の方に戻り、様々な解説資料などを見聞した。映画や人物モデルなどのある展示室を見て回ったりしたが、どうしても縄文時代なのか?という疑問は消えなかった。もっと多くの縄文遺跡といわれる場所を訪ねる必要があると思った。

 見学を終えて、一休みした後、明日のことを考えて浅虫温泉の方へは行かずに、来た道を戻って道の駅:なみおかに泊ることにしようと決めた。フェリー乗り場へは、こちらの方が便利である。17時過ぎに道の駅について、夕食はレストランで済ませ、夜を迎える。明日はいよいよ北海道上陸の日である。北海道開拓の歴史を今日の様子を訪ねる楽しみが待っている。

コメント
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