村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

紫式部ムラサキシキブ

2016-11-11 23:48:41 | 女房三十六歌仙
紫式部ムラサキシキブ
978〜1016
平安時代中期の女性作家、歌人。
『源氏物語』の作者
中古三十六歌仙、
女房三十六歌仙の一人。
屈指の学者、詩人である
藤原為時の娘。
藤原宣孝に嫁ぎ、
一女(大弐三位)を産んだ。
夫の死後、召し出されて
一条天皇の中宮・
藤原彰子に仕えた


今日は用事が無い
きのうが松山日帰りだったので 疲れているだろうからと
用事を入れなかったのだが
お昼頃
昨日松山にご一緒した
サカ様から電話があった
私はゴロゴロしていたのにサカ様は茶道部の文化祭の用事で今日も明日も
茶会の支度に走り回っているとのこと
サカ様の年齢は84歳だとか
お茶の人は凄い


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後鳥羽院下野ゴトバノインノシモツケ

2016-11-07 22:29:38 | 女房三十六歌仙
後鳥羽院下野
(ごとばのいんのしもつけ、生没年不詳)、
鎌倉時代初期に活躍した歌人である。
女房三十六歌仙の一人。
日吉社小比叡禰宜祝部允仲の娘。
源家長の妻。
源家清、藻璧門院但馬の母。
信濃とも呼ばれた。


皇后宮(坊門院範子内親王)に出仕後、
1203年(建仁3年)頃、
後鳥羽院に出仕、
翌1204年(元久元年)頃、
後鳥羽院歌壇の有力メンバーであり
『新古今和歌集』編纂にも携わった
源家長の妻となり、
歌人として頭角を顕す。
当初は信濃と呼ばれたが、
1206年(建永元年)8月までには
下野と呼ばれるようになっている。



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小大君コオオキミ

2016-11-05 23:03:40 | 女房三十六歌仙
小大君
こおおきみ、
天慶3年(940年)から
天暦4年(950年) - 寛弘2年(1005年)
もしくは寛弘8年(1011年)頃)は、
平安時代中期の女流歌人。
系譜が伝わらず父母については不明である。
三十六歌仙、および女房三十六歌仙の一人。

はじめ円融天皇の
中宮藤原媓子に女房として仕え、
のち三条天皇(居貞親王)の東宮時代に
下級の女房である女蔵人(にょくろうど)
として仕え、
東宮左近とも称された。
藤原朝光と恋愛関係があったほか、
平兼盛・藤原実方・藤原公任などとの
贈答歌がある。

『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に
20首が入集し、
特に『後拾遺和歌集』では巻頭歌
として採られている。
家集に『小大君集』がある。
散逸家集『麗華集』の断簡
「香紙切」や、 
三十六人集の断簡「御蔵切」の筆者に
擬せられているものの、
研究の進展でこれらは
院政期の筆跡と考えられている。
(ウィキペディアより)

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小侍従

2016-11-03 23:23:01 | 女房三十六歌仙
小侍従
(こじじゅう、
生没年不詳:
1121年(保安2年)頃 - 1202年(建仁2年)頃)
は、平安時代後期から鎌倉時代の歌人である。
女房三十六歌仙の一人。
石清水八幡宮護国寺別当光清の娘。
母は小大進。
太皇太后藤原多子の女房として
出仕したため太皇太后宮小侍従
あるいは大宮小侍従と呼ばれ、
また『平家物語』等に記されたエピソードから
待宵の小侍従(まつよいのこじじゅう)
として知られる。
『源平盛衰記』では、高倉天皇の在位中は
阿波の局と名乗っていたとする。


女房として二条天皇、太皇太后多子、
高倉天皇に出仕、
1179年(治承3年)に出家した後、
再び多子に出仕した。
この間に多数の和歌を詠み、
私家集である『太皇太后宮小侍従集』、
『小侍従集』、及び
『千載和歌集』以降の勅撰集、
その他私撰集等に作品を残している。
(ウィキペディアより)


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和泉式部

2016-11-01 23:07:35 | 女房三十六歌仙
和泉 式部
いずみ しきぶ、
天元元年(978年)頃 - 没年不詳)
平安時代中期の歌人である。
越前守・大江雅致の娘。
中古三十六歌仙、
女房三十六歌仙の一人。

越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。
はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ
太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい
(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。

長保元年(999年)頃までに
和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。
後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。
道貞との婚姻は後に破綻したが、
彼との間に儲けた娘・小式部内侍は
母譲りの歌才を示した。
帰京後は道貞と別居状態であったらしく、
冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、
身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。
紫式部は和泉式部を評して
「和泉式部といふ人こそ、
おもしろう書きかはしける。
されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と
『紫式部日記』に記されている。

為尊親王の死後、
今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。
親王は式部を邸に迎えようとし、
正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。
敦道親王の召人として一子・永覚を設けるが、
敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。
寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、
一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。
長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。
万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが
晩年の動静は不明。
(ウィキペディアより)


小倉百人一首56番
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」



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二条院讃岐

2016-10-24 23:37:14 | 女房三十六歌仙
二条院讃岐
にじょういんのさぬき
生没年不詳:1141年(永治元年)頃 - 1217年(建保5年)以降)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人である。

女房三十六歌仙の一人。
父は源頼政。
母は源斉頼の娘。
同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。
内讃岐、中宮讃岐とも称される。

二条天皇即位と同じ頃に内裏女房として出仕、
1159年19歳以降度々内裏和歌会(「内の御会」)に出席し、
内裏歌壇での評価を得た。
            二条院讃岐のうた
世にふるは
くるしき物をまきのやに
やすくも過る初時雨哉
この歌を
本歌取りして幾つもの和歌や俳句が発生した

俊成
まはらなる槙の板やに音はして もらぬ時雨や木葉なるらん
           
左近中将良経
さゆる夜の真木の板屋の独ねに 心くたけと霰ふるなり

世々ふるもさらに時雨のやどり哉 - 後村上院

雲はなほ定めある世のしぐれかな - 心敬

世にふるもさらに時雨のやどりかな - 宗祇

時雨の身いはゞ髭ある宗祇かな - 素堂

世にふるも更に宗祇のやどり哉 - 芭蕉

世にふるもさらに祇空のやどりかな - 淡々

世にふるはさらにはせをの時雨哉 - 井上士朗

時雨るゝや吾も古人の夜に似たる - 蕪村
(ウィキペディアより)
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赤染衛門

2016-10-22 22:31:44 | 女房三十六歌仙
赤染衛門
あかぞめえもん
天暦10年(956年)頃? - 長久2年(1041年)以後)は、平安時代中期の女流歌人。
大隅守・赤染時用の娘。
中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。

赤染衛門は赤染時用の娘とされる。
実父は平兼盛との説もある。
赤染衛門は
文章博士・大江匡衡と
貞元年中(976~978)に結婚する。
大江匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として
知られており、睦ましい夫婦仲より、
匡衡衛門と呼ばれたという。

赤染衛門は源雅信邸に出仕し、
藤原道長の正妻である源倫子と
その娘の藤原彰子に仕えており、
紫式部・和泉式部・清少納言・
伊勢大輔等とも親交があった。
匡衡の尾張赴任にもともに下向し、
夫を支えた。
また、子の挙周の和泉守への任官に
尽力して成功させ、
病のときには住吉に和歌を奉納し
病平癒に導いた話など、
母としての像も鮮やかである。

赤染衛門は
平安時代中期において活躍した
女流歌人として、
和泉式部と並び称されている。
その歌風は、
和泉式部の情熱的な歌風と比較して、
穏健且つ典雅なる歌風と評価されている。
(ウィキペディアより)



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嘉陽門院越前カヨウモンインエチゼン

2016-10-08 00:20:19 | 女房三十六歌仙
嘉陽門院越前
かようもんいんのえちぜん
生没年不詳
鎌倉時代初期に活躍した歌人
女房三十六歌仙の一人。
伊勢神官大中臣公親の娘。
伊勢女房、七条院越前とも呼ばれた。

後鳥羽院の生母(七条院藤原殖子)に出仕、
後に後鳥羽院息女嘉陽門院に出仕した。
1200年(正治2年)の『院後度百首』、
1202年(建仁2年)の『千五百番歌合』に抜擢され、
後鳥羽院歌壇で活躍。



文房具店に入ると
何か買いたくなる
森金さんが最近買ったという
スヌーピーの手帳を持っていた
私も真似して
9月から始まる来年の手帳をかった
表紙にスヌーピーがいる
手帳を買うのは
少し嬉しい



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馬内侍ウマノナイシ

2016-10-04 22:22:41 | 女房三十六歌仙
馬内侍
うまのないし
生没年不詳
平安時代中期の女流歌人。源時明の娘、
実父は時明の兄致明(むねあきら)と考えられている。

中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。

斎宮女御徽子女王(村上天皇女御)、
円融天皇中宮媓子、
賀茂斎院選子内親王、
東三条院詮子(円融天皇女御)、
一条天皇皇后定子
に仕えた。

藤原朝光・
藤原伊尹・
藤原道隆・
藤原道兼など
権門の公家と恋愛関係があり、
華やかな宮廷生活を送った。

「拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。家集に「馬内侍集」がある。
(ウィキペディアより)


暑さ寒さも彼岸まで
と言うが
十月になっても
暑い
でも草木は秋模様

山は暮れて野は黄昏の薄かな 蕪村



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宜秋門院丹後ギシュウモンインノタンゴ

2016-09-28 00:10:43 | 女房三十六歌仙
宜秋門院丹後
ぎしゅうもんいんのたんご
生没年不詳
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人。
女房三十六歌仙の一人。
丹後守源頼行の娘。
源兼綱らの兄妹。
源頼政は伯父にあたり、
従姉妹に二条院讃岐がいる。
摂政家丹後、丹後少将、丹後禅尼とも呼ばれる。

九条兼実家に出仕、
後に兼実の息女任子(宜秋門院)に仕え、
1175年(安元元年)以降多くの歌会・歌合に出詠した。
1201年(建仁元年)に出家、
その後も1207年(承元元年)頃まで歌人としての活動がみえる。
『千載和歌集』以下の勅撰集、
多数の歌合や百首歌等に作品を残している。
(ウィキペディアより)



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藤原道綱母ふじわらみちつなのはは

2016-09-18 22:41:32 | 女房三十六歌仙
藤原道綱母
フジワラミチツナノハハ
936-995
平安時代中期の歌人。
藤原倫寧の娘。

藤原兼家の妻の一人
子は道綱

『蜻蛉日記』は
兼家との結婚生活の
様子などをにつづった。

小倉百人一首では
右大将道綱母とされている。
小倉百人一首
歌番号53番

なげきつつ
ひとりぬる夜の
あくるまは
いかに久しき
ものとかはしる

兄・藤原理能の妻は
清少納言の姉

姪の菅原孝標女は
『更級日記』の作者


藤原氏の家系図を頭に
すっぽり入れておくと
何かと便利だが
そうそう入らない
これからは悲しいが
ますます覚えられなくなるだろう



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待賢門院堀河タイケンモンインノホリカワ

2016-09-10 23:59:12 | 女房三十六歌仙
女房三十六歌仙をよく知らない
でも覚えていた方が良いと
紫兎先生がおっしゃる
源氏の会の時に松風さんと私に
ご本も買って下さった
覚えないと申し訳ないが…
もう覚えるのは無理
せめて聞いたことがあるわ
といきたいものだ

待賢門院堀河タイケンモンインノホリカワ
生没年不詳
平安時代後期の歌人
女房三十六歌仙・中古三十六歌仙の一人。
父は神祇伯・源顕仲。
前斎院六条とも呼ばれる。

白河院皇女で斎院を退いた
二条大宮令子内親王に出仕、六条と呼ばれた。
後に鳥羽天皇の中宮・
待賢門院藤原璋子に出仕し、
堀川と呼ばれるようになった。


百人一首
80番
なかゝらむ
心もしらす黒髪の
乱てけさは
物をこそおもへ      
待賢門院堀河


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藤原俊成女

2016-09-04 00:21:13 | 女房三十六歌仙
出かける用事がないと
母の介護が主な仕事
今日は私ひとりなので
ともかく忙しい
少しでもベッドの横から離れると
アイスだとかブドウとか
そうでないと
ただ呼んだだけだとか
あまりの君主ぶりに
驚く
が仕方ない

藤原俊成女フジワラノトシナリムスメ
藤原俊成の養女(孫娘)
生没年不詳

鎌倉時代前期の歌人。
新三十六歌仙及び
女房三十六歌仙の一人。

実父は藤原北家末茂流(善勝寺流)出身の
尾張守藤原盛頼。
実母は藤原俊成の娘、
八条院三条。
祖父俊成の養女となった。

堀川大納言源通具の妻。
皇太后宮太夫俊成女、
俊成卿女の名で歌壇で活躍、
後には侍従具定母、
三位侍従母、
晩年出家してからは
嵯峨禅尼、越部禅尼と呼ばれた。
また、藤原定家の明月記においては、
後鳥羽院出仕以降出家までは、
俊成女の住んだ押小路万里小路宅から
押小路女房と記されている。
(ウィキペディより)


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右近

2016-08-20 23:25:10 | 女房三十六歌仙
右近うこん
生没年不詳
平安時代中期の女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。

醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、
元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順などと恋愛関係があった。
村上天皇期の歌壇で活躍した。

『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に入集している。

小倉百人一首38番 
忘らるる 
身をば思はず 
誓ひてし 
人の命の 
惜しくもあるかな

一説によると、この歌の相手は藤原敦忠と言われている。(ウィキペディアより)


写真はクマショウさんちの
竹でつくったトンボ
トンボの視野は270°
勝ち虫と言われる
茶道の世界にも
トンボに飾るとか
片トンボも使う
古くはトンボを秋津
と呼び、
日本では親しんできたものだが西洋ではどうも
そうではないらしい




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斎宮女御さいぐうのにょご

2016-08-17 01:26:45 | 女房三十六歌仙
お盆休みとかで
クリニックはどこもお休み
ほんとに一歩も外へ出かけない
本を読むか
お謡のレコーダーを聞くか
昼寝か
ああ夏休みだ


女房三十六歌仙
斎宮女御

徽子女王(きし(よしこ)じょおう
(929~985)
平安時代中期の皇族、歌人。
式部卿宮・重明親王の第1王女(醍醐天皇の皇孫)。
母は藤原忠平の次女・寛子。
朱雀天皇朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。

斎宮を退下の後に女御に召されたことから、
斎宮女御と称され、
また承香殿女御、
式部卿の女御
とも称された。
三十六歌仙および
女房三十六歌仙の1人。

中宮・藤原安子、
宣耀殿女御藤原芳子など
美女才媛の多い後宮にあって
徽子女王の父譲りの和歌と琴の天分は名高く、
ことに七弦琴の名手であったといわれる。

代表歌
琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ

世にふればまたも越えけり鈴鹿山むかしの今になるにやあるらむ

大淀の浦たつ波のかへらずは変はらぬ松の色を見ましや
(ウィキペディアより)






写真は
「琴」の画に
「の音に」と賛がある
斎宮女御の歌をあらわした画讃だろう



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