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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

好き嫌い存在

2011年05月11日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_bbeethovenfries 無機的なものではなく、有機的なもの、生きているもの、特に身体があり顔がある動物や人間の存在は、より強く私たちの身体を変化させます。だれか人が私たちのそばにいる場合、私たちの身体は誰も人がいない時とは明らかに違う反応をしています。

よく知っている人の存在の影響はさらに強い。自律神経系などは、嫌いな人が近寄ってくれば緊張するし、親しい人と一緒にいるときは緊張がほぐれます。テレビを見ていても嫌いなアナウンサーやタレントがしゃべっているときはリラックスできない。好きな俳優の顔が出ると気分がよくなります。人のことを想像するだけでも違う。人が生きている場合と死んでしまった場合とではその人を思う時の私たちの身体の状態が違います。その物事が存在するということは、そういう私たちの身体の状態のことである、と(拙稿の見解によれば)言えます。

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実物を見る

2011年05月10日 | xx5存在は理論なのか

ダマシ絵はそれくらいにして、実物で見てみましょう。

目の前にリンゴがある場合と、そのリンゴがリンゴでなくなった場合とでは、私の身体の反応が違います。私たちの身体の内部状態が違う。少なくとも脳神経系の状態は違う。おそらく自律神経系や心臓血管系や分泌腺や筋肉の緊張度合も微妙に違うでしょう。たとえばリンゴがある場合は唾液腺が興奮していたりします。

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 何を見ているのか?

2011年05月09日 | xx5存在は理論なのか

Klimt__altar_des_dionysos 似たような効果を持つダマシ絵には「アヒルかウサギか?」というものもあります。同じ絵がアヒルに見えたり、ウサギに見えたりする。アヒルのくちばしに見えたところがウサギの耳に見えたりする。この現象を、拙稿の見解で理解すれば、身体がアヒルを求めていればアヒルが現れる、身体がウサギを求めていればウサギが現れる、ということです。そういうものが現実である。私たちは本当にこの絵を見ているのか?私たちが見ているのはアヒルであるかウサギであるかであって、この絵ではないだろう(一九五三年 ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン哲学探究』既出)ということになる。私たちの身体はそういうふうに現実を感じるようにできている。そういうものが現実である、ということができます。物事が存在するということは、そういうことである、ということができます。

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ルビン・ヴェース

2011年05月08日 | xx5存在は理論なのか

またたとえば、子供向けの本などによく載っているダマシ絵を見てみましょう。左右対称の壺の絵があります。ルビンの壺というダマシ絵です。よく見ると左右から向き合った二人の左右対称な横顔になっています。壺とみると人の横顔は見えなくなる。横顔とみると壺は見えなくなります。

壺が存在すると横顔は存在しない。横顔が存在すると壺は存在しない。壺と横顔が同時に存在することはありません。同じ絵なのに存在する物事は違う。壺が必要なときは壺が存在する。横顔が必要なときは横顔が存在する、といえます。つまり、私たちの身体がそのときどちらに反応するか?それでどちらが存在するかが決まる。どちらに身体が反応するか?それは、そのときの私たちの身体が求めている物事がどちらかで決まります。壺を求めていれば壺になる。横顔を求めていれば横顔になる。

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新聞紙は存在する

2011年05月07日 | xx5存在は理論なのか

Klimt__allegorie_der_skulptur さてそもそも、ある時点に存在した物事はなぜ別の時点には存在しなくなるのでしょうか? この世界にある物事は(拙稿の見解によれば)それが私たちの生活のために必要である場合に、それを利用しやすいように私たちの身体を変化させることで、それが存在するようになる。拙稿のこの見解を採用すれば、物事に対する私たちの身体の反応を見ればどのような物事がどう存在しているのかが分かるはずです。

同じ物事でも、私たちはある場合はそれをこう利用するけれども、また別の場合は違うふうに利用する、ということがあります。そういう物事は、その時その時に必要な別々の物事として、それは存在することになります。

新聞紙などは、防寒用下着の代わりになる。爪を切って捨てるときに使う。折りたたんで入れ物にもなるようです。兜も折れる。また当然ですが新聞を読む場合に使えます。それぞれの場合、そういうものとして存在しています。

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