goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

話し手がいなくなった

2011年05月16日 | xx5存在は理論なのか

このことを少し離れたところから落ち着いて考えると、私や世界がなくなるという言葉ばかりでなく、もともと私が存在する、あるいは世界が存在する、というような言葉がそもそも何を意味しているかにも同じむずかしさが含まれていることが分かります。話し手がいなくなった場合を想定して語る(自己回帰的な)表現になっています。こういうような言葉から無理やり直感的な意味を感じ取ろうとすることはかなり危険だといえるでしょう。こういうような自我の存在にかかわる概念を分析の対象としようとした哲学者あるいは宗教家が混乱に陥った例は歴史上多くあるようです(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)。

拝読ブログ:ポートナー『意味とはなにか』第1 (8)<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" alt="Comments" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 12pt"></shape><imagedata o:href="http://d.st-hatena.com/statics/theme/4chairs-sky/comment_rd.gif" src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.gif"></imagedata>

拝読ブログ:テレフォン 心理テスト

コメント

哲学の落とし穴

2011年05月15日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_deathlife 世界がなくなるという言葉も似たようなむずかしさがあります。世界がなくなるとだれかがそのことを感じ取って身体を反応させることができなくなりますね。ですから、私が死ぬという言葉、あるいは世界がなくなるというような言葉は、実は(さきの拙稿の見解によれば)意味不明になる恐れを含んでいます。

私が死んでしまう。あるいは世界がなくなる。こういう言葉は、詩的な比喩としては何らかのイメージを感じることはできますが、それはほかの現実と整合しません。こういう言葉から無理やり直感で意味を感じ取ろうとすると変な幻想が作られてしまいます。かつて哲学が落ち込んでいった危ない落とし穴です。気を付ける必要がありそうです。

拝読ブログ:facebookのすすめ no1

拝読ブログ:ウィルキンソンを飲む頃は

コメント

私は死んでしまった

2011年05月14日 | xx5存在は理論なのか

ここでちょっとややこしいケースは、私自身が死んでしまう場合ですね 拙稿19章「私はここにいる」)。その時の私の存在はどうなるのか? 死んでしまった私は存在するのか?しないのか?

私が死んでしまうという場合はその事実を感じとる私はもういない。そうするとそのことを感じて私の身体がどう反応するかも分からない。私の身体の状態自体が存在しない。そうであると、(さきの拙稿の見解によれば)私が死んでしまうことの意味が分からなくなります。他人から見て私が死んでしまうということはよく分かる。私の身体が骸骨になってしまうという単純明快なことです。しかし私から見て私が死んでしまうということはどういうことなのか?それはさっぱり分からないはずです。私がもういないという現実に反応する私の身体がもうないからです。

拝読ブログ:一休骸骨

拝読ブログ:死んだ夢 

コメント

お化けはどう存在するか

2011年05月13日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_bride 物事が存在しているか存在していないか。それは私たちの身体がその物事が存在しているとして反応するか、それとも、存在していないとして反応するか、によって決まる、と(拙稿の見解によれば)いえます。

目の前にその物事が見える場合ばかりでなく、それを想像する場合も同じことです。想像する物事が存在するかしないかは、それを想像するときに私たちの身体がどう反応するかで決まる。お化けの話を聞いて、身体が硬くなって膝ががくがくして舌が乾いてきて逃げ出したくなったら、そのお化けは、身体をそういうふうに変化させるものとして、存在しているのです。

拝読ブログ:imagine世界の迷信!?

拝読ブログ:石鹸を電子レンジに入れると面白いことに

コメント

身体変化から自覚

2011年05月12日 | xx5存在は理論なのか

たしかに目に入ってくる光が網膜に映す映像を感じて、私たちの身体がそういう変化を起こすのですが、私たちとしては、身体が変化した結果を感じることで自分が映像を見ていることを知る。(拙稿の見解によれば)映像が先ではなくて身体の変化が先です。身体が変化することでその物事の存在が分かる。そしてその存在を見ている自分に気が付く。それと同時に自分の目がその映像を見ているという自覚が湧き上がってきます。

拝読ブログ:「薬指の標本」小川洋子

拝読ブログ:ヒトは異性を「嗅ぎ分ける」 意識下で異性のフェロモンを感知、同性のフェロモンには反応せず

コメント