「××が存在する」という場合、その××が「世界」である場合、「世界」は話し手から少し離れたところにあって話し手と聞き手とその他の人間に見られている。そういう想定のもとに「世界は存在する」という言葉は語られる。世界が滅亡してしまうとしても、その滅亡した後の世界は話し手から離れたところに見えていなければならない。話し手と聞き手とその他の人間に見えていなければならない。そういう前提のもとにこの言葉はあります。言葉で語られる限り、滅亡する世界もふつうの物体と同じようにいつもそこに見えていなければならない。言語で語る限りこのような限界の中でしか物事の存在は表現できません。
そういう言語の限界から結論すれば、私は死んで消えることはできないし、世界も滅亡して消えていくことはできない。話し手と聞き手が共有する空間の中に見え続けていなければならない。そうであるので、その共有空間では私は死んでも消えていかないし、世界は滅亡しても消えてなくなることはない。つまり私は死んでも死なないし、世界は滅亡しても滅亡しない。直感と矛盾するパラドックスです。しかし、私たちの言語というものはそういうパラドックスを含んで成り立っています。
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