いずれにせよ、人間は意志を持って自分の身体を動かしている、という目的論的な思い込みは、霊長類共通の認知機構を基礎とする人類の生得的機構であるようで(一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図』既出、一九八七年 ダニエル・デネット『意図的観点』既出)、拙稿の見解では、これが言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。また同時にこの機構が(次に述べるように)私という存在の基盤にもなっていると思われます。
目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義)を採用するならば(実際私たちは日常この理論を使って会話していますが)、私の身体が動いているのは当然それをだれかが意図を持って動かしているはずだ、ということになります(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。そのだれかは私と呼ばれるものだ、と私たちは思います。実際、私たちの言葉がそうなっているからです。こう思うことによって、私が存在すると感じられることになります(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。
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