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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

哲学の大問題

2010年07月06日 | xx3人類最大の謎

Jules_joseph_lefebvre__pandora_ii

まあ、筆者個人としては、いま鼻風邪を引いているのかあるいは花粉症なのか、いずれにしろくしゃみが止まらないとか、あるいは寝間着のままで昼までこうしていては妻の機嫌を損ねてまずいだとか、目の前の問題のほうが重要だと思えますので、なかなか人類の一人としてこの世で最大の謎を考える気にはならない。しかしまったく考えないということでもありません。忙しい現代人の中では、どちらかといえば考えるほうといえるでしょう。

こういうことを考えるほうがえらいと言う人がいますが、そうではないでしょう。逆に考えないほうがえらいと言う人もいますが、これも違うでしょう。しかしながらいずれにせよ、どちらがどうえらいかという話題については、拙稿の興味からは、実は重要な問題であると思われるので、この章の中でゆっくり考えてみようと思います。

さて、なぜ人間は哲学をするのか、などという話をこうして書き連ねている筆者としては、人間がこういうとほうもなく大きな、大きすぎる謎を不思議だと感じるという事実に興味がある。この謎は、実に大きいけれども実生活には役に立ちそうもない。しかし大きいといえば実に大きい。大きいというだけで面白いとはいえる。哲学の大問題とも言われている。しかし大きすぎると思われているために、現代ではこれを職業的に扱っている哲学者はあまりいない。かえってアマチュアが興味を持つ話題になっているようです。

世界とは何か?自我とは何か?存在とは何か? もしこれが人類最大の謎であるとするならば、もちろん、簡単に解けるはずがない。図書館に行けば、ギリシャ哲学から現代哲学まで古今の哲学書、思想書が山のように積まれている。たとえば、伝統的哲学では、このような問題は形而上学に分類されている。

拝読ブログ:海岸 - 俗物哲学者の独白

拝読ブログ:最近メガネがいらない気がしてきた

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人類最大の謎  begin

2010年07月05日 | xx3人類最大の謎

(23 人類最大の謎  begin

 





23 人類最大の謎




私はなぜ今ここに生きているのだろうか? 

今はなぜ今なのか? ここはなぜここであるのか? 私はなぜこの私なのか? 存在の謎というか、この世で最大の謎というか。

この社会で私の人生がどうか、という細かい具体的な問題ではなくて、私がどの人間だとしても、今ここにいるということがどういう意味なのか、私が今ここにいて、この世をこうして感じとっているということは、どういうことなのか? 

これはこの世で一番重要な、人類最大の問題である、という考え方がある。宗教や哲学はこういう考えから出てきた。一方、こういう大きすぎるような抽象的な問題は、実はたいてい、どうでもいいことである、というニヒルな考え方もある。筆者の考えに近い。まあ、それぞれ、それなりにもっともな考え方です。

いずれにしろ、すぐ答えがでるはずはないし、万一、うまく話が進んだとしても、それは実生活にはまったく役に立たない話でしょう。生活者的観点からいえば、どうでもいいことです。しかし、一方まじめに考えれば、たしかにこれは、謎といえば謎です。すごい謎だといえる。たとえば小学生のように純粋な頭で考えれば、かなり不思議な感じがするだろうということは、大人の筆者でも、想像できます。その観点からは、最高に不思議ともいえる。最高に不思議だということにすれば、これは、人間が感じる最大の謎のひとつと言ってもよいのではないでしょうか?



拝読ブログ:『銃・病原菌・鉄 上 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』

拝読ブログ:最大の謎

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人生を持つ動物

2010年07月04日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

Jule_joseph_lefebvre_pandora

人生。日本語でも中国語でも人生という字を使いますが、英語ではライフという。ドイツ語ではレーベン。フランス語ではヴィー。イタリア語ではヴィタといいます。英語では生命と人生、両方とも同じライフです。英語に限らず西洋語では生命と人生は同じ言葉です。日本語でも生き様というように同じ語感ですね。生あるものが生を生きる様は人生と同じ、という考え方をする。つまり、私たち人間は、人間以外のものであっても、命あるものは人生保持機構を持っている、と直感する。むしろ人生保持機構を持っているように見える存在を「命がある」と思う。

科学者でないふつうの人々は、虫でも鳥でも動物はみな、人生保持機構を持っている、と素朴に考えています。幼稚園児が「虫さんは、はやく大きくなりたくて、いっしょうけんめい、葉っぱを食べているの」というとき、大人もその通りだと感じる(拙稿7章「命はなぜあるのか)。記憶能力も予測能力もない生物が計画的行動をするということは、論理的には明らかに間違いですが、ふつう人々はそんなことは気にしない。生物観、動物観は、科学者とそうでない人とはかなり違っています。そういうふつうの人の直感に根ざしている人生という観念は、人類の世界認知の仕組みをよく表現しているといえます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。

ギリシア神話によると、神様に作られた最初の女性パンドラは、開けてはいけないと言われた箱を開けてしまう。たちまち、あらゆる災難と苦痛がその中から飛び出てきて、世界中に広がってしまった。最後に「希望」だけが残った。人類に贈られた人生という箱の話なのでしょう。

(22 私にはなぜ私の人生があるのか? end)</sapn>

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生きていることの理由

2010年07月03日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

現生人類は、この能力によって緻密な社会を形成して、脳の大きい子供を確実に育成するシステムを完成した。その結果、きわめて柔軟かつ効率的に地球上の多様な環境に対応して拡散し増殖した、と考えられます。

つまり(拙稿の見解では)私たち人類は、脳の中で仲間にし、仲間の視座から見た客観的な時空間における将来の自分たちの姿がおかれる状況を見てとって、その将来状況が現実としていま目の前にあるかのように身体が反射的反応を起こすことで思考し、行動している。

その仲間の視座から見た自分の姿を感じながら、過去を想起し未来を予測する。私たちはそれを自分の人生だと思っている。人類が脳の中に作りだしたこの仕組みが人生保持機構です。その結果、人類は緻密な社会を作り上げ、環境適応の能力がいちじるしく向上して地球上で大繁栄した。その子孫である私たちは、この人生保持機構を祖先から受け継いでいる。これがいま、私たちがそれぞれの人生を持ち、懸命にそれを生きていることの理由といえるでしょう。

拝読ブログ:アフリカから帰りました

拝読ブログ:レポゼッション・メン / Repo Men

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人間は座標変換により予測

2010年07月02日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

Rubens_therapeofeuropa

いずれにせよ、動物はふつう身体がおかれている環境の中で、現在の身体が受けている感覚にだけ対応する。未来を予測して対応する場合もないことはないが、それはこれから数秒、あるいは数分、あるいは長くても数時間後に起こる変化です。動物にとってその数秒あるいは数時間は、現在の瞬間をそのまま拡張したものといえます。イヌなどは投げられたフリスビがどこに行くか予測して走っていきます。現在の身体が受けている感覚から数秒後の状況変化を予測して、それに素早く対応するような能力を持っている、といえるでしょう。

人間の場合、この予測は、現在の身体状態から予測される直近の状況変化ばかりでなく、むしろ現在の身体状態から座標を変換して、仲間の視座に憑依することで得られる客観的な時空間における遠い未来あるいは過去の自分の姿を対象として行われる。その場合、現在の行動はその遠い未来あるいは過去の予測ないし想起に対応して形成される長期にわたる目標を持った計画行動の一環としてなされる。

拝読ブログ:夏日の日曜日の過ごし方(1)

拝読ブログ:回転行列、拡大縮小行列、平行移動行列(三次元座標の場合)

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