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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人類の身体→存在のヒント

2010年07月11日 | xx3人類最大の謎

なぜ人間は他の動物と違って、客観的な世界の中に客観的に自分の姿を見てとるのか? それは(拙稿の見解では)、私たちが、仲間の目で見て世界はどう見えるか、仲間から自分がどう見えるか、客観的に自分は何をしているように見えるのか、常にそれを予測しその予測に対応して行動を形成するような身体になっているからです。それは、拙稿の見解によれば、人類が、仲間の人間と協力してきわめて緻密な社会集団を作ることにより効率よく食料を獲得し脳の大きな手間のかかる子を確実に出産養育して繁殖することに成功した動物だからです(拙稿22章「 私にはなぜ私の人生があるのか」)。

人間が世界を見てとる身体的な仕組みがそうしてできあがったとすれば、この世界の物事が私たちにとって分かりやすく、記憶したり予測したり言葉で語り合ったするのにとても便利に仕分けられているわけが納得できます。この世はなぜこうであるのか? 世界の分節化はいかになされているのか? 存在するものたちはなぜこのように存在しているのか? それは(拙稿の見解によれば)こういう理由なのでしょう。

なぜこんな話をするかというと、この話に、本章のテーマを展開するための大事なヒントが隠されているからです。どうも(拙稿の憶測では)、私たちの身体のここらへんの仕組みに、人類最大の謎を解くカギがありそうです。

拝読ブログ:やっぱ、歩み寄らなくっちゃね。

拝読ブログ:一日でも早い梅雨明けを願う

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人の目を気にして生きる

2010年07月10日 | xx3人類最大の謎

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人間は、仲間の視点から見えるはずの世界をはっきりと感じとってそれを客観的現実と思っている。その中にはっきりとあるように感じられる自分の姿をいつも知っている(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。私たちは、はっきり目が覚めているときは、自分が何をしているか知っています。特に、警戒して神経が高ぶっているときほど、しっかり客観的に自分を見ています。

私たちは、ふつう目が覚めているときはいつも、よほど何かに注意を集中して(我を忘れて)いるとき以外は、いつも他人から見た自分を知っている。それだけ人間は無意識のうちに人の目を気にして生きている、といえます。このことを私たちは、自意識がある、といっています。人間以外の動物には、自意識はない。人の目を気にしない赤ちゃんや認知症の老人にも自意識はない。

拝読ブログ:人の目を気にする男。

拝読ブログ:ひまです

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憑依による客観的世界の認知

2010年07月09日 | xx3人類最大の謎

私たちが感じるこの世のすべて、つまり客観的現実世界全体は、(拙稿の見解によれば)私たちの脳に備わっている憑依機構が作動することで作られる。私たちは、目が覚めているときはほとんどの場合、仲間の視座に憑依して仲間(他者あるいは社会)の運動感覚との共鳴を下敷きにして身の回りの環境を認知している。その仕組みで私たちは、無意識のうちに世界を仲間の視点から見ている。当然、私たちは、私たちが仲間の視点から感じとっている世界の一部分である自分の身体を自分だと思っている。

人間以外の動物は(拙稿の見解によれば)憑依機構を備えていないので、仲間(他者)の運動感覚や感情がはっきりつかめない。人間が仲間との運動感覚の共鳴によって作られる客観的世界の存在を感じられるのに対して、人間以外の動物たちはそれを感じられないはずです。つまり人間以外の動物には、客観的現実世界というはっきりしたものはない。

拝読ブログ:トリップ注意書

拝読ブログ:ゲーム世界の果てはどうなっているのか

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メタメタフィジックス

2010年07月08日 | xx3人類最大の謎

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まずは問題の背景を見まわしてみましょう。

拙稿本章のテーマは、拙稿の第一部や第二部、第三部などで述べたいくつかの話題、たとえば「人間はなぜ哲学をするのか?(拙稿3章)」とか、 「存在はなぜ存在するのか?(拙稿13章)」とかいうたぐいの議論を延長したものとみなせるでしょう。これらは、形而上学に含まれる存在論(二〇〇三年 バリー・スミス『存在論』既出)といわれる分野に分類される議論ですが、正確にいえば、存在論そのものというよりも、存在論はなぜ存在するのか、という問題にあたります。存在論の存在論。メタ形而上学、メタメタフィジックスというような議論になるでしょうか? 

ちなみに拙稿は哲学用語はなるべく使わない方針なので、以後もこれまでと同じように、形而上学とか存在論など哲学で使われる専門的な概念にはかかわらず、ふつうの言葉だけで進みます。たとえば存在とか感覚とかいう言葉も哲学用語ではなくて、ふつうに使う意味で使います。ただやむを得ずに作った(たとえば憑依などという)拙稿独自の造語がいくつかあります。それらは拙稿の基本概念であると同時に、ふつうの言葉で表現すると長くなりすぎるので、しかたなく導入したものです。ハイパーリンクで索引できるようになっていますので、どの文脈でどう使われているかをお読みいただければ分かりやすいはずです。どうぞご利用ください。

さて、私たち人間は、目や耳など身体の感覚器でいま感じとっているこの場の場面ばかりではなく、過去や未来、あるいは別の場所、別の視点、あるいはさらに想像上の別の状況が現実の延長として存在することを想像できる(二〇〇八年 ニラ・リーバーマン、ヤーコフ・トロープ『此処と今を超越することの心理学』既出)。人間以外の動物はこれができない。拙稿本章の議論では、この点が大事なヒントになります。

拝読ブログ:正しいフォーム

拝読ブログ:原武史『滝山コミューン一九七四』

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華やかな学問

2010年07月07日 | xx3人類最大の謎

かつて哲学が華やかな学問であったころ、形而上学は哲学のそのまた核心に迫る学問であるといわれて、たいへん人気がありました。形而上学に関連する哲学テーマについては、これを第一哲学と呼んだアリストテレス(BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学)以来、今日までに何十万という著作論文が世界中で書かれています。今日でも、まじめに哲学を考える人々にとっては、形而上学という言葉は、もっとも高尚な学問をあらわす、という印象を持たれているようです。さて、そんな誇り高い伝統を持つ学問領域に対して拙稿ごときが、今から何かを書いたとしても、うまくいって古典の下手な焼き直しにしか見えないでしょう。だれも読んでくれない。

そこで、視点をすこしずらして、解けない問題をどう考えるか、という話にすり替えてみましょう。いわば形而上学の形而上学あるいはメタ形而上学の話として書いてみる。これなら、なんとか読んでもよさそうな話が書けるかもしれませんね。

さて、私はなぜ今ここに生きているのだろうか? その答えはさておくとして、これがなぜ問題になるのか? 私たちは、なぜこれを大いなる謎だと思うのでしょうか? そしてそれをなぜ考えようとするのか? あるいはなぜ考えようとしないのか? こういうことを考えるほうがえらいのか、考えないほうがえらいのか? 本章では、そこらへんのところを調べてみることにします。

拝読ブログ:実践哲学思想④j) Just and Injust

拝読ブログ:犀川先生の名言とか

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