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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

世界と私は無関係なのか

2010年07月16日 | xx3人類最大の謎

Lefebvre_la_cigale

私たち人間は、広い世界の中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分のこの身体がある、と思っている。実際、世界はどこまでも大きくて、その中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分のこの身体がある、つまりこの客観的世界の中に自分はいる、と思っていますね。そう思っていない人はまずいません。もし仮にそう思っていない人がいるとすれば、そういう人は赤ちゃんや認知症の老人や人間以外の動物と同じように言語が理解できない。人類の言語は、(拙稿の見解によれば)客観的世界の共有を下敷きにして作られているからです拙稿8章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。

世界は、今ここにこのように客観的に現実としてあって、その中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分がいる。私の目の前にこのようにあってその中を私が動きまわっている客観的現実。これは私が目で見て手で触っているばかりでなく、全身で感じとっている存在です。はっきりとここにあって、私がそれを感じようと感じるまいと、関係なく、この現実世界は存在している、としか思えません。これは私だけでなく人間ならばだれもが同じこの現実世界を感じていると思えます。

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人間の主観vs. 超ひも理論

2010年07月15日 | xx3人類最大の謎

ちなみに、人類に備わる客観的現実感を表現する脳神経機構に関して拙稿の見解では、動物が空間を動き回るときに身体の向きと位置の変化を周囲の風景から割り出す仕組みから進化したと考えます。また目の前の世界が現実であるという感覚は、私たちが仲間と共有する集団的視座に憑依して世界を見るという人類特有の憑依機構を利用して行われているとする仮説を採用しています。これら理論については拙稿の他の章に詳述してあるのでご参照ください(拙稿9章「私はここにいる」など)。

脳神経科学の知見にもとづく現実感、存在感の理論は、本章のテーマとして取り上げている哲学的謎が現れる身体機構を推測する点で重要です。

しかし、脳神経科学からのアプローチだけで、この問題が解明できるという考え方は(拙稿の見解によれば)、やはり無理があるでしょう。科学は、結局は、客観的世界を観察にもとづいて言葉を使って理論化することしかできません。科学者が自分の脳をいくら詳しく観察して理論化しても、それは他人の脳を観察することとまったく同じことになってしまいます。科学の理論からこぼれ落ちるこの私自身の感覚と感情は、そのしかたでは拾えません。人間の主観による現実感覚の意識を科学理論として表現することは先端物理学の超ひも理論よりむずかしい、という見解もあります(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー赤を見る:意識の研究[邦訳: ニコラス ハンフリー (著) 赤を見る?感覚の進化と意識の存在理由 ])。

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脳科学で謎は解けるのか

2010年07月14日 | xx3人類最大の謎

Lefebvre_japonaise

たしかに科学では説明できないのに、私たちは、今はこの今であって、ここはこのここである、ということを確信しています。そして世界を感じとっているのはこの私だ、と確信している。では、私たちはなぜ今は今で、ここはここだと思っているのか? なぜ、世界を観察しているのはこの私だと思っているのか? このとき私たちの脳神経系はどのような状態になっているのでしょうか?

現代の脳科学の知見からは、自分が客観的現実世界の中にいるという感覚は、脳幹、大脳基底核、頭頂葉、前頭葉などの神経活動の連携によって起こるらしいことが分っています。科学者の側からは、現代脳科学の先端的仮説を援用して哲学古来の存在の謎を解明すること(つまりデカルト二元論を一元化すること)が可能になるという主張もあります(一九九四年 アントニオ・ダマジオデカルトの誤謬:感情、理性、および脳』既出、二〇〇三年 アントニオ・ダマジオスピノザを探して:喜び、悲しみと感じる脳』既出)。

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現代科学はつまづく

2010年07月13日 | xx3人類最大の謎

現代科学は、物質世界については、どこまでも詳しく説明できるかのように見えます。いまや生命の謎も、科学の理論で完全に説明できそうです。さらにもう少しで、人間の精神さえも脳の物質現象として説明しつくせるかのようでもある。しかし、最も簡単な質問において現代科学はつまづく。今はなぜ今なのか? ここはなぜここであるのか? 世界を観察しているこの私はなぜこの私なのか? 

物理学の用語で方程式の境界条件という。観察対象を特定するこの条件値は物理法則によっては与えられない。今はこの今であって、ここはこのここである、という事実は事実であるからというしかない。科学理論をいくら精緻に研究してもこの答えは決して出ない。この問題に気づいている科学者は、哲学にその意味の解明を期待するしかないのです。

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哲学者より科学者が悩む

2010年07月12日 | xx3人類最大の謎

Lefebvre_clemence_isaure

さて、人間は自分が客観的世界の中にいることを知っている。そして(科学を理解していれば)客観的世界にあるものはすべて物質だと知っている。その物質である自分がなぜ感情や理性や自我や意志を持っているのか? 脳がそれらを作り出しているとも思える。しかし物質は客観的に観察できる物質現象しか作り出さない。一方、私が感じている自分のこの感情や理性や自我や意志は客観的に観察できる現象ではない。脳を解剖しても(顕微鏡を使っても)それらを目で見ることはできない。科学を理解すればするほど、この不思議さは深くなってきます。 

近代科学が始まったころからずっと、哲学者や科学者は、この問題には悩まされています。現代では、むしろ哲学者よりも科学者が悩んでいる。現代の哲学者はこういう問題にはプロですから、古典を解説する仕事として割りきってしまう。あるいはクリエィティブに仕事する場合は、流派ごとにさっさと細かく専門化して、書きやすい論文を書くことに忙しい。一方、科学者は論理に強いわりには哲学にはアマチュアなので、自分内部の問題として悩むことになります。

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