私たち人間は、広い世界の中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分のこの身体がある、と思っている。実際、世界はどこまでも大きくて、その中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分のこの身体がある、つまりこの客観的世界の中に自分はいる、と思っていますね。そう思っていない人はまずいません。もし仮にそう思っていない人がいるとすれば、そういう人は赤ちゃんや認知症の老人や人間以外の動物と同じように言語が理解できない。人類の言語は、(拙稿の見解によれば)客観的世界の共有を下敷きにして作られているからです(拙稿8章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。
世界は、今ここにこのように客観的に現実としてあって、その中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分がいる。私の目の前にこのようにあってその中を私が動きまわっている客観的現実。これは私が目で見て手で触っているばかりでなく、全身で感じとっている存在です。はっきりとここにあって、私がそれを感じようと感じるまいと、関係なく、この現実世界は存在している、としか思えません。これは私だけでなく人間ならばだれもが同じこの現実世界を感じていると思えます。
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