goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

物質と超越的存在

2010年07月21日 | xx3人類最大の謎

世界は私だけに特別の配慮をしてくれてもよさそうではないか? 超越的な神秘の存在が現実に働きかけて、私の願いを聞いてくれないだろうか? 私たちが無意識のうちに抱えている、正当な理由のないこのような気分が、現代でも人生を動かしているし、ひいては世界経済を動かしている、もしかしたらこれは、人間にとって、しばしば意思決定のよりどころであるのかもしれない、と思えます。

一方、冷静に身のまわりを見渡せば、私が何者であるかそして私が何を願っているか、ということとは何の関係もなさそうに、目の前にある世界はまさに客観的現実として動いている、ように見える。ここにあるこの現実世界は、だれが感じとるかにかかわりなく、同じ現実世界であるはずです。この現実世界の中にある私のこの身体も、他のどの人体とも同じように客観的にここにある。そうであるとすれば、この現実世界をいくら詳しく調べても、私とはこの世界にとって特別な何かだ、という結論は得られない。この私の身体の中にだけ何か神秘的なものがいるという客観的証拠は見つからない。物質であるこの身体が何か神秘的な超越的なものにつながっているという理屈はありえない、と思えます。

拝読ブログ:私が考えるところには私は存在しない(われ思うゆえにわれあり)  その2

拝読ブログ:「私」とは何か

コメント

ギャンブルの起源

2010年07月20日 | xx3人類最大の謎

Lefebvre_mary_magdalene_in_the_cave

こういう不可思議な謎を含んでいる限り、この世界は私と特別の関係を結んでいるのではないか? あるいは私はこの現実世界にとって特別の存在なのではないのか? 私と世界との関係については、こういう錯覚が生まれてきそうなところがあります(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。

おみくじを引いて現実世界が私に何をしてくれるのか占う。ギャンブルやゲームに賭ける。神様が私を見捨てていないかどうか、たしかめたい。現代のマネーゲームもひいてはビジネスも、こういうところがある。また古くは、祈祷や呪術や魔術、縁起、タブーなどが現れてくるところだったのでしょう。現代人がいう希望、期待、願望というものも、それら古いものから派生している、とみることもできそうです。

拝読ブログ:予言タコ・パウルの下劣

拝読ブログ:例によって「社会派くんがゆく」Vol.102にツッコンでみるよ

コメント

私をめぐる循環論理

2010年07月19日 | xx3人類最大の謎

私は私だけがこれを私だと思っている。しかし、どの人間も自分を私だと思っているだけのことです。実際、どの人間が語るときも、自分のことを私と言う。それなのに、私にとっては、なぜこの私だけが私なのか? 堂々巡りのような話になる。

そうは言っても、こういう屁理屈のような話とは関係なく、私とはこの私のことだけだ、と感じる体感はなまなましくここにある。世界とそれを感じとる者(=私)の体感との関係は現実世界をいくら詳しく調べても見つかりません。ここに大きな謎があります。

拝読ブログ:調査・帰納・推論・反証の弁証法サイクル

拝読ブログ:この画像がなんの話かわかるひとは心の友

コメント

観察者と物理法則の独立性

2010年07月18日 | xx3人類最大の謎

Lefebvre_la_fia

どの人間が私であっても世界がこうであることはまったく変わらないはずですね。たとえば、科学の描く世界は、私がこの私でなくてもまったく変わりがない。物理法則もまったく変わりがない。世界のありさまもまったく変わりがない。私が世界を観察している観察者であってもなくても、それだけのことでは世界は変わりがない。そうであれば、世界を観察している私は、私以外のどの観察者とも区別されないはずです。

現実世界を観察している私がここにいる。この現実世界の小さな一部分であるこの私だけがこの世界を感じとっていることが分かる。私以外の人々も世界を感じとっているはずだが、それは他人の内面を推測することで分かるだけであって、実は外面を見るだけでははっきりとは分からない。この私が体感として世界を感じとっていることだけがはっきりと分かる。しかし世界を感じとっていることがはっきりと分かる人間はこの私だけだということの理由がない。なぜこの私だけが世界をはっきりと感じられるのか?世界の側から見た場合、その理由がない。

拝読ブログ:自画像をめぐる自意識

拝読ブログ:図書館の前で変わったおじいさんにであった。

コメント

私だけが私なのか

2010年07月17日 | xx3人類最大の謎

そのことと、私のこの身体がこうしてこの現実世界全体を感じとっているということとの関係から謎が立ちあがってくる。あるいは、もっと長々と正確にいえば、私がそれを感じようと感じるまいと関係なくこの現実世界ははっきりとここに存在している、ということと、私のこの身体だけがこうして体感でこの現実世界全体を感じとっているということとの関係からこの謎は立ちあがってくる。私が見るところ、世界は私の周りに広がっている。私は世界の中心にいて世界を感じとっている、ように思える。

しかしそう思う一方、私以外のどの人間も私と同じように世界を感じとっているはずです。そうに違いないと思えます。そうであれば、この現実世界とそれを感じとっている人間との関係は、どの人間にとっても同じということになる。そうであれば、なぜ私はこの私なのか?他のどの人間が私であってもおかしくないはずではないでしょうか? 実際、どの人間が語るときも、自分のことを私と言う。それなのに、私にとっては、なぜこの私だけが私なのか? 

拝読ブログ:ねるお

拝読ブログ:青葉の老木に

コメント