問題はこうです。
いまここにある現実の世界は、現実であるからして、だれにとっても同じものです。というか、現実はただ一つ、いま私が目の前に見ているここにあるこの現実しかない。だから現実といわれる。そうであるならば、この現実はだれが観察しても同じものでしょう。
この現実世界に私はいる。そうであれば「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」ということです。ところがこの話には破れ目があります。その破れ目は私の身体です。
ある人がここにあるこの私の身体を観察する。だれが観察してもこの私の身体は、客観的現実としてのひとつの物質です。この身体をいくら観察しても、生きたまま脳や内臓のすみずみ、、それら細胞の分子構造にまで解剖して顕微鏡で見ても、この身体は一つの人体であって、他の人体とあまり変わりがない。私のこの人体を観察しても、他の人体を観察して分かることしか分からないはずです。
この身体が、この私がいま感じていることを感じているかどうかは、客観的現実としては観察できない。私だけは私がいま感じていることを感じているということが体感で分かりますが、私以外のだれも私の身体が感じていることを体感としては感じられないでしょう。こういう場合、私にしか感じられないことは客観的現実とはいえない。だれもがそれが存在することを感じとれる場合に限って、それを客観的現実ということになっているからです。
拝読ブログ:中井久夫『「世界における索引と徴候」について』より
拝読ブログ:超越者と風土