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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

存在の破れ目=身体

2010年07月26日 | xx3人類最大の謎

Lefebvre_opehlia

問題はこうです。

いまここにある現実の世界は、現実であるからして、だれにとっても同じものです。というか、現実はただ一つ、いま私が目の前に見ているここにあるこの現実しかない。だから現実といわれる。そうであるならば、この現実はだれが観察しても同じものでしょう。

この現実世界に私はいる。そうであれば「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」ということです。ところがこの話には破れ目があります。その破れ目は私の身体です。

ある人がここにあるこの私の身体を観察する。だれが観察してもこの私の身体は、客観的現実としてのひとつの物質です。この身体をいくら観察しても、生きたまま脳や内臓のすみずみ、、それら細胞の分子構造にまで解剖して顕微鏡で見ても、この身体は一つの人体であって、他の人体とあまり変わりがない。私のこの人体を観察しても、他の人体を観察して分かることしか分からないはずです。

この身体が、この私がいま感じていることを感じているかどうかは、客観的現実としては観察できない。私だけは私がいま感じていることを感じているということが体感で分かりますが、私以外のだれも私の身体が感じていることを体感としては感じられないでしょう。こういう場合、私にしか感じられないことは客観的現実とはいえない。だれもがそれが存在することを感じとれる場合に限って、それを客観的現実ということになっているからです。

拝読ブログ:中井久夫『「世界における索引と徴候」について』より

拝読ブログ:超越者と風土

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神の存在をめぐる議論

2010年07月25日 | xx3人類最大の謎

なぜ「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」のか?

この問題は、あまりにも神秘的だから神の存在と関係があるという考えも出てくる。この世界の存在理由がよく分からないのは、それが神様によって作られたからだ、というような理論がでてきます。実際、近代の西洋哲学では、形而上学は神の存在をめぐる議論から発展してきました。東洋の哲学でも、昔から無窮とか無我とかの概念が最も重要なものとされていて、その謎は深すぎて人知の及ぶところではない、という考え方などがあるようです。

古今東西の哲学者たちがこれを根源の謎といっているのであれば、本章のタイトルとして採用した「人類最大の謎」というおおげさな表現も、まあまあ許されるでしょうね。

拝読ブログ:デカルトによる神の存在証明 - 野田又夫「デカルト」(4)

拝読ブログ:人みな骨になるならば ー15

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科学による近代哲学の混乱

2010年07月24日 | xx3人類最大の謎

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しかしながら、拙稿で何度も繰り返し述べているように、この常識的な感じ方はおかしい(たとえば拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。論理的に無理があります。特に、この世はそもそもどういう仕掛けで動いているのかとか、この客観的現実の根底はどうなっているのかとか、大自然はどういう仕組みでできているのか、などということに興味を持ってまじめに調べようとすると、この常識のおかしなところにひっかかる。そのため、近代科学が始まっていらい、まず科学者と哲学者がこれにひっかかり、それにつられて宗教家、文学者、社会思想家、倫理学者、心理学者、その他もろもろの理論家がひっかかっていきました。

コペルニクスの地動説(一五四三年 ニコラウス・コペルニクス 『天球の回転について』既出)以来の近代哲学の混乱は、まさにここから来ています。まず、デカルト1596 ?1650)の「我思う、故に我あり(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)」がここから来ている。近代から現代に連なる大哲学者たち、カント(1724-1804)ウィトゲンシュタイン(1889-1951)ハイデッガー(1889-1976)も、存在に関する問題をいろいろ議論していますが、最後にはやっぱり大きな謎が残る、というようなことを書いています。現代の科学者を悩ましているクオリア心脳問題も意識(拙稿9章)や自由意志(拙稿10章)の問題もここから来ています。

拝読ブログ:2010 読書日記64冊目 「デカルト省察」 フッサール

拝読ブログ:人はなぜ「貧しくても幸福な生」の物語に憧れるのか

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現実主義者がえらい

2010年07月23日 | xx3人類最大の謎

これはあたりまえではないか、と思える。常識ですね。私たちは、毎日、これがあたりまえと感じて暮らしています。皆がそう思ってうまく暮らしているのだからそれでいいではないか、という現実主義がある。それはそれで納得がいきます。

私たちは毎日、現実の問題にかかわるだけで十分忙しいし、実際、今すぐになんとかしなければならないこと以外に気を回している暇はない。それに、こういう現実主義こそが人々の共感を得て、その共感のうえで、人々との話が通じるし、まじめに付き合ってもらえるわけです。結局、現実世界にしっかりはまりこんで懸命に走っている人間がえらい。私たちにとって関心を持つべきものは、今すぐすること、今すぐできること、それ以外にない。関心を持つべきことは、目の前のこの現実の中にしかない。そう思える。そう思いたい。という気持ちはいかにも現実的です。常識といってよいでしょう。

拝読ブログ:裸の王様のカラオケ民主主義論

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世界の中心=私

2010年07月22日 | xx3人類最大の謎

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「私が私だ(私が世界を感じていることを感じられるのは私だけだ)」と叫んでも、人間ならだれでもそう言うでしょうから、この私が世界の中心の私である証拠にはならない。「私が私の右手を上げようとすれば、ほら、私のこの右手が上がるから、いま右手を上げている人間が私だ」と言っても、やはり、だれでもそう言うだろう、ということになってしまう。

しかしまた一方、私は現実にここにあるこの私の身体の中にいる、としか思えない。

このように私たちは、目の前のここには、私とは関係なく客観的現実の世界があり、それを感じとっているこの自分はこの客観的現実の中にある自分の身体だとしか感じられない。つまり「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」(拙稿19章11)。

拝読ブログ:恥の感覚の発生条件

拝読ブログ:[至上主義]

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