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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人類の人生保持機構

2010年04月10日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

あのとき、私はこうした、君はそうした、という記憶を共有できる。そのときのたがいの感情をも共有できる。社会生活でおたがいの人生を認め合うことで信頼が成り立つ。緊密な協力関係が成り立つ。法律制度が働き、契約社会が成り立つ。私たちは自分自身の人生を予測し設計し管理することができる。そうして、この人生保持機構を持つ人類は地球全体に繁殖し拡散した。

人類以外の動物は人生保持機構を持っていそうにありません。人類に近い類人猿も、それは持っていないと推測できます。人生保持機構を持っていれば、勉強したり貯蓄や投資をしたりして将来に備えるはずです。しかしチンパンジーもゴリラも、自発的に勉強したり、健康に留意したり、資産形成をしたりしているようには見えませんね。人間以外の動物には、人生(動物生?)がない。過去もなければ未来もない。人間でも、赤ちゃんのときはそうです。老人性認知症になった場合もそうでしょう。ひたすら現在を生きる。邪心がない、聖なる精神ともいえます。

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次郎物語

2010年04月09日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

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さらに驚くべきことには、私たちは自分の人生を一編の物語のように理解している(二〇〇三年 ピーター・ゴルディー『人の記憶された過去:説話的思考、感情、および外的視座』)。芥川龍之介は芥川龍之介の一生という物語を持っている。太郎は太郎物語という人生を持っている。次郎は次郎物語という人生を持っているわけです。このように人生を理解する仕掛けが、私たちの身体に備わっているのは、なぜなのでしょうか?

それは、私たちの身体がそういう仕掛けになっていることによって仕事や社会生活をうまくこなすことができるからでしょう。この仕掛けを、拙稿では「人生保持機構」と呼ぶことにします。私たち人類は、「人生保持機構」を持っている。人類の脳はそう進化した。たしかにこの機構を持っていれば、人類の生活環境において生存繁殖に便利です。

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身体で記憶する

2010年04月08日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

人間の身体は、物心ついてから現在までの自身の過去を、かなりはっきりと記憶している。日記などつけていなくても、だれもが、かなり鮮明に遠い過去の自分のエピソードやイベントとそのときの想いを思い出すことができる。

それは文章に書き下したエピソードやイベントというよりも、身体で記憶している。そのとき身体がどう動いてどういう感覚を感じとっていたか、という記憶です。筋肉の負荷、触感、匂い、血管平滑筋の緊張、動悸、発汗、というような身体感覚で記憶している。かなり過去の事件でも、その感触を覚えています。

これは、考えてみれば、驚くべき記憶力ですね。なぜ、私たちの身体は、ここまでしっかりと過去を覚えておく必要があるのでしょうか? 昔は、デジカメもパソコンもなかった。もっと昔は日記帳も文字もなかった。そういう昔こそ、記憶力が頼りだったのかもしれません。この人類特有の高性能記憶能力が、私たちの人生を支えている、といえます。

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人生の記憶が人生

2010年04月07日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

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逆にもし、A君が私と同じ記憶を持っているとしたら、A君は、その部分において私である、といえるのかもしれない。もしそうであれば、この論理を敷衍することで、私の人生の経験記憶が、たまたま、すべてA君の記憶と同じものであるという理論的仮定のもとでは、私の人生はA君のそれと同一である、となる。ただしこの場合でも、私は私の人生が私のものだと思っているし、A君もまた、A君の人生はA君のものだと確信していることになる。

つまり、つきつめれば、その人生がその人のものである、という根拠は、その人がその人生の記憶を持っていて、同時にその人がそれを自分の人生であると思っている、ということだと言ってよい。

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経験や予想で身体は動く

2010年04月06日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

芥川龍之介は、たぶん、一九二〇年代のある日に、先輩と一緒に、牧神の額と赤い鉢に植えたゴムの樹があるカフェにいた、という経験の記憶があるのでしょう。芥川龍之介が書いた『或阿呆の一生』に、主人公がそういうカフェにいたという記述がある。そして或阿呆の一生』は自伝的著作だと思われるところから、この記述は龍之介の記憶にあった経験を再構成したものだろうという推測ができます。

しかし問題は、それが事実かどうかということではなく、読者である私が、この文章を読むことによって、自分がそのカフェにいた記憶があるような気になってしまう、ということです。一九二〇年代に、たぶん、銀座にあったそのカフェのコーヒーは、当時最先端のシューレアリズムの匂いがしたのではないか? もし今も銀座にその店が再現されたといううわさがあれば、龍之介のフアンが喜んで訪れるのではないか? 読者である私も、もちろん行ってみたい、と思う。

そうすると、芥川龍之介の読者である私は、芥川龍之介が経験したことの記憶を持っているということにおいて、部分的にではあるが、芥川龍之介である、と言えるのではないか?

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