そしてこれは私だけの問題ではない。どの人間もそれぞれ自分の人生を自分の人生だと確信している。それはあまりにも当たり前のことと感じられるから、これが問題だとは思われていない。しかし、このことは経験や知識で分かることではない。身体で自然に感じられる、というだけです。私たちは、自分の身体を自分の身体だと思うのと同じくらい、はっきりと、自分の人生を自分の人生だと思っている。
私たちは自分の人生の過去を知っている。未来は、もちろんはっきりとは分からない。しかし、今日や明日のことくらいは、かなりよく予想できる。私が私である限り、私がこうすればこうなるだろう、という予測に確信がある。私は私のサインで私のクレジットカードを使って買い物ができる。銀行カードと暗証を使ってお札を引き出せる。限度額までしかできないことも知っている。このビルのガードマンは私の顔を見ればドアを開けてくれる。それは私が私だからだ、ということを私は知っている。
拝読ブログ:一冊の本
拝読ブログ:そうなんですか?
問題はこうです。
私はなぜか、物的証拠がなくても、私が私であって芥川龍之介などではない、ということを確信している。私は私であって、他のだれでもない。それに関して物的証拠はなく、それについてどの文書にも記述がなく、だれの証言もなく、冤罪で裁判になって私が別人だとは証明できないとしても、私自身は確信できる。この確信はどこから来るのか?
これは経験から来るものではない。経験や知識から帰納できることではない。推論で演繹できることでもない。身体がそう感じる、としかいいようがない。
私は私が私の人生だと思っているものと不可分に結びついている。私の人生は、私とともにここにある。私を私の人生から切り離すことはできない。私は私の人生の付属物である。私は私の人生のパイロットとして私の人生航路を導くことを任務としている。そう思えるのです。
拝読ブログ:納骨
どうも、そうではなさそうですね。仮に私が身分証明書をなくしてしまって、それを皆さんにお見せできなくても、私が私であって芥川龍之介ではない、という事実に変わりはない。どうしてって? 私がそうだと思っているからです。
それは私の記憶違いではないのか? 私は実は芥川龍之介であるのに、そのことを忘れてしまっただけなのではないか? いや、そんなことはありえない。そんなことはありえない、ということを私は確信している。この私の確信を皆さんにお見せできないとしても、私の確信に間違いはありません。
拝読ブログ:授業ネタ Prt.2
それはありえないでしょう。私は私でしかないからです。
なぜ、私が私であって、芥川龍之介ではないのか?
それは、私が、私が私であって芥川龍之介ではない、と思っているからでしょう? ではなぜ、私は私が私であって芥川龍之介ではない、と思っているのか? それは、私の身分証明書を見せて皆さんに説明できる。
しかし、私が、私が私であって芥川龍之介ではない、と思っている理由は、本当に私がこの身分証明書を持っているからなのか? この身分証明者に印刷されている名前が芥川龍之介という字になっていなくて、私が私の名前だと思っている字になっているからなのか?
拝読ブログ:2010-03-31 のつぶやき
拝読ブログ:桜咲く"東京ロンドン化計画"