童話を読んでもらう幼児の場合、手足をばたばたさせたり、床を転げまわったりして、全身で主人公の気持ちを味わって楽しみます(二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ『なぜ、ごっこするのか?』)。小説や物語やドラマは、読者、観客の身体を揺り動かして(自律神経に働いて身体感覚を引き起こすことで)快感をあたえるような作用を持っています。音楽やスポーツにも似ている。このことが、世の中に小説や物語やドラマというものが存在している本当の理由でしょう。
このことから推測すれば、逆に(拙稿の見解では)、私たちはもともと、他人の人生であろうとも自分の人生あろうとも、いずれもそれが第三人称を使って語られる一遍の小説やドラマであるかのように客観的にみなすことができることを示している。
あるいはむしろ、逆が真ではないか?つまり、私たちが自分の人生を感じとる場合、私たちは、それをあたかも小説を読んだりドラマを観劇したりするときと同じように感じとっているのではないか? 私たちの身体が備えているこの働きが(拙稿の見解では)、人生という概念を作りだし、同時に人生保持機構を支えている、といえます。
拝読ブログ:お話会
拝読ブログ:「まだ遊びたい」病