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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

逆が真ではないか?

2010年04月20日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

童話を読んでもらう幼児の場合、手足をばたばたさせたり、床を転げまわったりして、全身で主人公の気持ちを味わって楽しみます(二〇〇六年 ピーター・カルーサーズ『なぜ、ごっこするのか?』)。小説や物語やドラマは、読者、観客の身体を揺り動かして(自律神経に働いて身体感覚を引き起こすことで)快感をあたえるような作用を持っています。音楽やスポーツにも似ている。このことが、世の中に小説や物語やドラマというものが存在している本当の理由でしょう。

このことから推測すれば、逆に(拙稿の見解では)、私たちはもともと、他人の人生であろうとも自分の人生あろうとも、いずれもそれが第三人称を使って語られる一遍の小説やドラマであるかのように客観的にみなすことができることを示している。

あるいはむしろ、逆が真ではないか?つまり、私たちが自分の人生を感じとる場合、私たちは、それをあたかも小説を読んだりドラマを観劇したりするときと同じように感じとっているのではないか? 私たちの身体が備えているこの働きが(拙稿の見解では)、人生という概念を作りだし、同時に人生保持機構を支えている、といえます。

拝読ブログ:お話会

拝読ブログ:「まだ遊びたい」病

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憑依機構(筆者の造語)

2010年04月19日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

Gerome_theharemsexcursion

これは、私たちの脳の憑依機構(筆者の造語です。すみません)の働きです。拙稿のいう人生保持機構は、この憑依機構を利用して作られている。憑依機構の神経回路を(サブルーティンとして)働かすことによって人生保持機構は働く。(拙稿の見解では)、小説や物語やドラマは、読者の脳内にある人生保持機構の一部分を稼動させることで、それと連動する憑依機構を効果的に活動させ、小説(あるいは物語、ドラマ)の内容を読者に疑似体験させるような仕組みになっています。

優れた小説(あるいは物語、ドラマや映画やマンガ、あるいは詩歌や演歌)は、読者に乗り移って読者の人生保持機構を最大限利用するこのテクニックを使いこなしている。読者は小説の主人公になりきって楽しむことができる。主人公に憑依し、その内面に入り込んでその喜怒哀楽を自分の身体の反応として感じとる。主人公が悲しいとき、読者は涙を流す。読者は涙を流すときにつんとくる涙腺平滑筋の緊張と弛緩の感覚を身体で感じて楽しむ。鼻につんと来るわさびの味を楽しむときに似ています。熱心な読者は、手に汗を握り、眉をしかめ顔を赤くして楽しむ。

拝読ブログ:のだめカンタービレ最終楽章

拝読ブログ:畑わさびの粕漬け、山椒味噌、たけのこ瓶詰め

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小説の愛読者というもの

2010年04月18日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

第三者の人生が、第三人称を使って語られているのに、聞き手はいつのまにか、自分のことのように感じとってしまう。まず、語り手が自分のことのように語っていると感じられる。語り手も聞き手もそこにいる皆が、そこで語られている第三者の物語を、自分の人生として感じとることができる。そうして物語は成り立ち、それが現代の小説になっている。

物語の聞き手は分かる。小説の読者も分かる。語られている人生が分かる。そこに描写されている人生を生きている人々の気持ちは、自分の気持ちだと感じられます。だれにも分かってもらえないはずの、自分の、秘密の、内面の深いところにあるそれが、ここに語られているのだ、と感じられます。ああ、自分にもこういう感情があったのだ、と読者は気づき、その気づきを楽しむ。そうして、優れた小説は読者を引き込んでいく。小説の愛読者というものは、こうして生まれる

拝読ブログ:愛宕山文化講座 林真理子さん「小説を書く時間」

拝読ブログ:本の処分、残った本…。

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芥川龍之介の小説テク

2010年04月17日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

Gerome_thealmeh

芥川龍之介『或阿呆の一生一九二七年 )』を読んでみましょう。第三人称で書かれた小説の形式になっていますが、作家の主観のように読める。「彼は軽蔑した」というような文章表現は、第三人称を使って読者を作家に乗り移らせようという作家の小説的技巧でしょう。読者は作家の内面に引き込まれる。作家が書きながらそのとき感じていた感覚を、読者は読みながら今感じる、ように感じる。あるいは、作家が読者の内面に乗り移って来ている、ともいえる。

こういう小説のテクニックは、芥川龍之介が発明したものではないでしょう。小説、あるいは物語というものは、優れているものであればたいてい、このテクニックの上に作られている。紫式部も使っていた。この小説テクニックは、人間がもともと持っている乗り移り機構、拙稿の用語でいう憑依、という機構を利用している。

拝読ブログ:キター!!!(藤倉)

拝読ブログ:紫式部(むらさきしきぶ)

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小学生と人生

2010年04月16日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

世界を仲間の視座から見て、それがだれにでも同じに見える客観的な存在だと感じとると同時に、その中に自分という一個の人間の身体を認める。世界の中を、目的を持って動く存在としての自分の身体を、他人の目で客観的に見ることができる。その(他人の目で客観的に見た)自分の身体が動いていく過去と未来のできごとを記憶し予測する。それが人生保持機構の働きです。こうして人類は、人生保持機構を持つようになったのでしょう。

私たちは、成長の過程で何歳くらいから人生というものを理解するのでしょうか? つまり個体発生において人生保持機構はいつ発現するか? どうも、幼児の発育段階において、この機構は、三歳くらいから十歳くらいまでに発現するようです。多くは、小学校低学年くらいで、児童は、自分には自分の人生があることに気付きます。この段階まで発達した児童は、もう大人と同じ世界観を共有していますから、大人の話すことが分かるようになっています。

拙稿の見解では、人生保持機構は、人類に特有な生得的神経機構に支えられる学習過程によって獲得される。私たち大人から見て、小学生は、その精神状態が動物のようなところから始まって、数年のうちに完全な人間になっていくように見えるわけです。

拝読ブログ:小学生

拝読ブログ:小学生の寄り道

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