goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

動物と人間とは違うのか?

2010年01月22日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

しかし読者の皆さんの常識では逆でしょう。そもそも人間が目的を持って意識的に行動するものであるから、動物を擬人化することで、動物も人間と同じ仕組みで行動を決定していると見なせる。そうすることで、動物の行動を分かりやすく表現できる、ということでしょう。しかし本当に、人間は、動物を人間とは違うものと認めた上で、それを表現上のテクニックとして擬人化しているのか? むしろ、そうではなくて、動物も人間とまったく同じような心を持って動いている、と思っているのではありませんか?

拝読ブログ:大変つまらないけれど・・・

拝読ブログ:クロサイ 仲良し親子 

コメント

人間が動く原因は?

2010年01月21日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_lionthetwomajesties

私たちが人間を観察する場合、人間も動物の一種ですから、その動きは当然そう見える。つまり私たちが人間の動きを認知すると、その動きは目的を持った意識的行為であるかのように見える。これは、人間が動く原因はその人間の内部にある意識的意図が働く結果である、というモデルを私たちが、無意識のうちに、使っているからです。

意識的意図は、どの動物の中にもあって、その動物(あるいは人間)の動きの結果を予測してそれがもたらす状況の変化を評価し、好ましい結果をもたらすような動きを選択する、ように見える。この選択には感情が伴っていて、結果のよしあし、好き嫌いを判定している、ように見える。私たちは、こういうモデルで動物や人間の行動を認知している。

拙稿の見解によれば、私たち人間は、動物の行動にこのような意識的意図、あるいは社会的な意図を見て取る。これは(拙稿の見解では)、動物などの動きに社会的な目的を見る見方から派生して、私たちは、人間の行動にも社会的な目的があると見ている、ということです。

拝読ブログ:「タモリ倶楽部」 2010年1月16日 役に立たない機械たち

拝読ブログ:マンガソムリエ煉獄編

コメント

目的という脳内モデル

2010年01月20日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

こうして、XがYをする、という言語形式が作られる。つまり人類の言語においては、話し手は「Xを観察するとXが自分の運動の結果を予測してそれがYをする結果となることを意識した上でYをするかのごとく見える」と推定したときに「XがYをする」という言語表現をする。

こうして人類は、言語を使うとき、その下敷きとして働く運動シミュレーションのモデルとして、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物事の見方をするようになった。いや、正確に言えば(拙稿の見解では)、人類は、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物事の動きをシミュレーションモデルとして脳内に備えているから、その仕組みを利用してこのような言語構造を進化させた。

このモデルを使って、動物の動きを見ると、それは目的を持った意識的行動のように見えます。つまり、ある動物がある行為をするときは、その行為の結果を予測して、それを目的として、その行為をしているように見える。

拝読ブログ:脳はなぜ「心」を作ったのか

拝読ブログ:html5デモ

コメント

比喩と事実の区別はない

2010年01月19日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_post_coitum_omne_animal_tris

私たちの言語は(拙稿の見解では)、本来、比喩と事実を区別しない、ともいえる。比喩を使う文章表現を指して、それが比喩表現であるとする見方は、現代人の言語学者が考え付いた見方ではあるけれども、言語を発明した原始の人々は、もともと比喩と事実の区別はしていなかった、のではないでしょうか?

もしそうであるとすれば、「あらゆる行動は目的がある」という認知は、現代人からみて比喩であろうが事実であろうが、本来、人間の言葉としては、事実として語られる。つまりどんな場面でも「あらゆる行動は目的がある」という見方は普遍的な使われ方をしていることになります。これは人類の言語が持つ二項形式が(X,Y)、Xがある目的を持ってYをする、という形式であることに(拙稿の見解では)表れています。

拝読ブログ:変わる(?)言語学

拝読ブログ:ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』

コメント

比喩は事実の一種

2010年01月18日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

拙稿の立場としては、これは人類の言語の顕著な特性である、と認識します。こうして人類の言語は、比喩が比喩であることに気づかずに使われていく。あるいは、比喩は事実の一種である、という形で使われていく。実際、比喩のほうが事実よりも事実を表していたりする(一九八〇年 ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン『生きる糧としての比喩』既出 〔邦訳:渡部昇一・楠瀬淳三・下谷和幸訳『レトリックと人生』大修館書店, 1986年〕)。「あらゆる行動は目的があるかのごとく見える」というアナロジー(直喩)が、単に、「あらゆる行動は目的がある」という事実の形式(隠喩)で表現される。

拝読ブログ:描写の衰弱

拝読ブログ:北川透「『海の古文書』序章の試み」

コメント (1)