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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

答がでない→忘れられる

2008年06月15日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

たとえば、私たちの内面の感覚や感情や現実感は、目に見える互いの表情や、耳に聞こえる音声で、互いに感じ取るしかない。それを言葉につなげれば、あいまいにぼんやりとしたイメージを表わすことはできます。「ね。ね」とか、「分かるでしょ」と言えば、なんとなく分かり合える。わかり合えるような気になれる。たしかに、親しい者どうしの日常会話ではそれで十分伝わることが多い。しかし、哲学のように、私たちが共有する現実感や存在感を理論的な観念として定義したり、論理的に厳密に表現したりしようとすると、どうしてもうまく行かない。だれもが納得できるように正確に表わすことはできない。

ふつう、こういうことは無視されたまま、私たちの日常生活は営まれていく。ごく少数の哲学者や知識人が、理論的な思索を問題にする。しかし、結局は、うまく言い表せない。そのために、明快な答がでないまま、また忘れられていく。これは困ったことです。

拝読サイト:『ネコの王』(小野敏洋)

拝読サイト:ジェーン・オースティン「高慢と偏見」

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言語化不可能性

2008年06月14日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Caravaggio_bacchus

言葉を使うようになって以来、人類は、自分たちが感じるあらゆる感覚や感情や錯覚を、言葉で表そうとして試行錯誤してきた。そのおかげで、言語技術は発達し、詩や文学や哲学ができた。文明が発展し、社会が発展し、科学が発展した。ついにグローバリゼーションが始まった。人類は、昔に比べれば、数の上でも大増殖し、しかも一人一人、すばらしい生活ができるようになった。

それで、人間は感じることをすべて、言葉で言い表せるようになったのか? 確かに表現は豊かになった。しかし、すべてを言葉にできるか、というと、結局は、うまくいっていない。言葉を使って私たちは、感じることの一部だけを、なんとか表現できるようになっただけです。人間どうしは、確かに多くのいろいろな感覚や感情や錯覚を共有しているらしい。しかし、人間どうしが共有しているそれらを、言葉でうまく表現することは、実は、きわめてむずかしい。言語化が不可能なものが多い。

拝読サイト:「歴史と私。」

拝読サイト:The imagination rewrite our memories.

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しゃべり欲

2008年06月13日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

ところが、私たちは、自分が感じることは何でも言葉で伝えたい、という気持ちを持っている。親しい人がそばにいれば、遠慮なく自分の今の気持ちを言い表したくなる。たとえ、そばに人がいなくても、私たちは一人でもしゃべりたくなる。子供のおしゃべりを聞いても、大人が書くブログなどを見ても、それが分かる。私たちは、とにかく衝動的に、自分が感じていることを口にする。私たちは、言葉を使って、毎日、毎時間、気持ちを伝え合っている。物事を伝え合っている。自分自身に対しても独り言をいい、自分自身に自分の思いを伝え、確認し、記憶していく。私たちは、このように、身の回りの物事は何でも言葉で伝えられる、と思っている。

現実にあるものは、すべて言葉で伝えられる。正しいことは、すべて言葉で伝えられるはずだ。逆に言えば、私たちは、お互いが言葉で分かり合えることだけが、正しい現実だ、と思っている。もしそうであれば、言葉がすべてだということになります。言葉を、適切に使いこなしさえすれば、すべての問題は解決するはずです。だが、本当に、そうでしょうか?

拝読サイト:ガミガミと・・

拝読サイト:沈黙について考える

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言葉の信頼性保証

2008年06月12日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

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言語は、人間が仲間と共感できる感覚についてだけ表わすことができる。共感だけが頼りです。ところが、人間どうしの共感は、それがある時点で起こったとしても、別の機会に必ずしも正確に再現性を持って現われることができない。昨日はうまく気持ちが通じたのに、今日は通じない、ということがある。ある人には通じるのに、他の人たちには通じない、ということが、いつでも起こる。多くの人との間で、いつも同じ共感を作れないと、その感覚に対応させる言葉の信頼性が保証されない。

信頼性がないと、あいまいな怪しげな言葉遣いになってしまう。それでは正確な言語は作れない。結局、科学のように、客観的な物質を介して人間どうしが言葉を確認できるときだけ、言葉の信頼性は保証される。複数の人間が、いつでもそれを見られて聞けて触れるものだけを、言葉は正確に語れる。見えるだけで、聞いたり触ったりできないものでも、言葉にすることはできるが、あまり正確ではなくなってくる。たとえば、虹や雲などの話をしても、気象学者でない私たちの会話では、雲をつかむような頼りない話になってしまう。さらに、まったく目で見ることもできないもの、たとえば物質世界に実体がない脳の中だけの感覚、あるいは錯覚や感情などを、言葉で正確に表すことは無理なのです。私の歯の痛み、とか、存在の耐えられない軽さ、などについて語っても、それで何が人に伝わるのか、はなはだ、頼りない。

拝読サイト:おカタイのが御好き?:透明は御好き?

拝読サイト:痛み続く

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言葉がすべての始まり、ではない

2008年06月11日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

たしかに、言葉とは不思議なものです。人間は言葉を使ってお互いを理解する。言葉を使って世界を理解する。言葉を使って哲学を語る。それ以外に哲学を語る方法はありそうにありません。目つきや手振りだけで、あるいは歌やおどりで、哲学を語るわけにはいかないでしょう。

昔の哲学者が、「言葉がすべての始まりだ」と考えたのは無理もありません。そう考えたからこそ、言葉で哲学が語られてきた。そうして哲学書が書かれ、大学に哲学科が作られ、哲学者という職業ができた。言葉が哲学の始まり、哲学の生い立ち、だったことは間違いありません。まあ、逆に言えば、言語技術を職業とする人たちの間から哲学ができてきたわけです。ただ、そのような、その生い立ちが、哲学の不幸の始まりだった、と(拙稿の見解では)いえます。

言葉がすべての始まり、と思うことから間違いが始まる。言葉がすべての始まりではありません。言語は、人類という生物現象の一部分です。言葉は便利なものですが、人間が感じているものを、すべて言い表せるものではない。言葉で表せないものは、もちろん、他の方法で表すことはむずかしい。それでも、そういうものは、たくさんある。言葉が、本当に正確に表せるものは、(拙稿の見解では)人間が感じるものの一部分でしかない、机やパソコンや猫や自分や他人の身体など、目に見える物質世界のことだけです。

拝読サイト: アリストテレスの「表/裏」

拝読サイト:哲学課題

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