たとえば、私たちの内面の感覚や感情や現実感は、目に見える互いの表情や、耳に聞こえる音声で、互いに感じ取るしかない。それを言葉につなげれば、あいまいにぼんやりとしたイメージを表わすことはできます。「ね。ね」とか、「分かるでしょ」と言えば、なんとなく分かり合える。わかり合えるような気になれる。たしかに、親しい者どうしの日常会話ではそれで十分伝わることが多い。しかし、哲学のように、私たちが共有する現実感や存在感を理論的な観念として定義したり、論理的に厳密に表現したりしようとすると、どうしてもうまく行かない。だれもが納得できるように正確に表わすことはできない。
ふつう、こういうことは無視されたまま、私たちの日常生活は営まれていく。ごく少数の哲学者や知識人が、理論的な思索を問題にする。しかし、結局は、うまく言い表せない。そのために、明快な答がでないまま、また忘れられていく。これは困ったことです。
拝読サイト:『ネコの王』(小野敏洋)
拝読サイト:ジェーン・オースティン「高慢と偏見」