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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

個人的な幸福

2008年04月15日 | x7私はなぜ幸福になれるのか

Tiziano_three_ages_of_menしかしまあ、大人の人間はだいたい、自分の人生というものは大事だと思っている。自分の人生の目的というほどはっきりしたものは考えていないにしても、周りの仲間と比べての成功、勝ち負け、運不運という意識はある。結婚生活のイメージだとか、家族のイメージ、年収の良い安定した職業、会社でのポジション、あるいは、家の大きさや自動車のグレード、資産の大きさ、などが、その目安でしょう。そういうものを、人並みに、あるいは、できれば少し上等なものを、手に入れたいと思って毎日、努力しています。こういうものが、いわゆる個人的な幸福、といわれるものですね。そして、これらを手に入れることと個人が毎日どういう行動をするかとは、深い関係があると思われているわけです。

 近頃流行の、ビジネスマンの心構えを説く講座などでは、「五年後の自分の姿を想像して人生の目標を立てよ」と教えてくれる。しかし、なぜ人生の目標を立てなければいけないかは、教えてくれない。それは、あまりにも当たり前のことだから、書いてないのでしょう。つまり、だれにとっても自分の人生の成功というものが、間違いなく、とても大事なことだ、と考えられているわけです。

拝読サイト:幸福と価値

拝読サイト:歯車

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人生には目的があるのか

2008年04月14日 | x7私はなぜ幸福になれるのか

そういう空気が支配している現代、いまどきいい大人がこんな質問をしてきたら、ちょっと警戒したほうがよさそうです。おかしなオカルト宗教の人か、ノイローゼの人か、何かをごまかすために演技しているか、どれかの可能性が高いからです。

 それでも純真な中学生なら、素直に聞いてきそうです。

「人生には目的があるのでしょうか?」

中学生が顔をまっすぐに向けて、こう質問してきたら、大人は、まず目をそらしてはいけません。まじめな顔をしてきちんと回答しなければなりませんね。幸いというか、筆者は、こういう場面の経験がありません。自分が遭遇した場合を想像するに、つぎのように答えようかな、と思います。

「好きな女の子を見つけることかな」

男子だったらこれでよいかもしれない。

しかし女子だったら? それは、考えたことがありません。幸運なことに筆者の娘はこういう質問をしてきませんでしたので。いずれにせよ、大人は、やはり、こういう場面を想定しておかなければなりませんね。そこで拙稿では、この際、ちょっとまじめに、この問題を考えてみようか、と思います。

拝読サイト:一週間誰とも会話しないと声が出なくなる

拝読サイト:夜は雨が自主練の邪魔をする!!

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私はなぜ幸福になれるのか?

2008年04月13日 | x7私はなぜ幸福になれるのか

(サブテーマ:私はなぜ幸福になれるのか? begin

17 私はなぜ幸福になれるのか?

Tiziano_sacred_and_profane 人生の目的は何か? このごろは流行らないようですが、筆者の世代、あるいはその一つ前くらいの世代の若者は、こういう問いがまさに哲学だ、と思っていたようです。しかし哲学者の本も、科学者の本も、文学者の本も、どの本を読んでも、人生の目的は何かについてまともな答えは書いていない(現代哲学の開祖といわれる哲学者も、人生の意味という問題に意味はない、と書いています。一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考既出 一九九七年 カレブ・トンプソン『ウィトゲンシュタイン、トルストイ、人生の意味』)。そうなると、こういうことを質問しても空しい、と思われるようになるからでしょうか、今はだれもこういうことを質問しません。

拝読サイト:人生の目的

拝読サイト:人生の意味

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生きている人間だから

2008年04月12日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

人生の幸運ということを、あらためて考えてみれば、そもそも、人生について考えることができる、ということそのことが非常な幸運である、というべきでしょう。まず、生きている人間であるということ。地球生態系の最高位に位置する動物として生きていること。そのことそのものが、どの人間にとっても、その人生でつかみ得る最大の幸運でしょう。自然の最高傑作であるこのすばらしい肉体を持って、みごとに洗練された知的システムである仲間の人間と、それがだれであろうと、なにごとかを交信できるということに勝る楽しさはない。そしてうまくすれば、歴史に蓄積された文化と文明の中に身をおき、そこに作られたゲームを楽しませてもらえる。それ以上の幸福が人生にあると思うのは、幻想ではないでしょうか?

筆者ですか? 実人生ではともかく、趣味の世界では成功が多い。毎晩、だいたいはその日一日に満足して床に就きます。次の朝は爽快に起きる。コーヒーを沸かしトーストを焼く。一口飲んで香りをかぐと、人生の幸福とは何か、はっきり分かる。すっきりした幸せな気分で家を出ます。

ただ、人と同じくらいの早足で歩いて行くのに、たいていバスに乗り遅れて、いつも自分ばかりが置いていかれているような気がする。すぐそこに見えているのにバスが行ってしまうと、さりげなく視線をそらし、平然とした顔をして歩行速度をわざとゆっくりと落としながら、口の中では運命の女神を罵る言葉をつぶやいています。

私はなぜ幸福になれないのか? それは、私が生きている人間だからでしょう、たぶん。

ようするに、私たちは、生きているから幸福になれない。幸福になれないから生きていられる。

(サブテーマ:私はなぜ幸福になれないのか? end)

(次回からは サブテーマ:私はなぜ幸福になれるのか?)

拝読サイト:火災報知器と進化のハナシ

拝読サイト:☆高校生☆

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小さな幸福を抑える

2008年04月11日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

Boucher_pastral  同様に、私たちの世間話ではよくあることですが、ある行為をして獲得できた金額の多寡、あるいは社会的地位の上下についてだけ論じても、幸福の程度は分からない。お金や出世による幸福がありがたい、ということは万人が認めるところですが、どのくらいありがたいか、その程度については、人それぞれ、そのとき、その場合による。その人が、そのとき、何を大事だと思って生きているか? だれもが自分と同じ考えだと思えば簡単な問題ですが、そうはいかないでしょう。

私たちは、上位の、長期的な、大きな目的を持っているときは、下位の小さな幸福にはこだわらない。それだけを見ればそれがかなりな不幸でも、耐えられる。「人生辛抱だ」とか、「がんばらなくちゃ」とかいうことは、そういうことでしょう。私たちは、先の大きな幸福を夢見ているからです。そういう脳を人間は持っている。そういうふうに人類の神経系が進化したからです。長期の大きな目的のために小さな幸福の欲求を抑える神経系の能力が、人類の生存繁殖に有利だったに違いありません。

冬ひもじくても、春にまく種は食べない。逆に、どれほどたくさんの穀倉を所有していたとしても、さらにそれを倍増させようとして、死に物狂いに働く。私たちは、その状況におかれれば、だれもが、そういうことをします。そういう行動をするような脳を持った人類が生き残った。その子孫である私たちは、こうして、いつでも、いつまでも、明日の人生の幸福を懸命に追い続ける生き方をするようになりました。

拝読サイト:勝海舟の言葉4・・・WONT BE LONG25

拝読サイト:野茂さーん、頑張って。

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