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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

存在のシミュレーション

2007年03月11日 | 4世界という錯覚を共有する動物

赤ちゃんが、生まれつき、身の回りの物体の運動を予測する能力を持っていることを調べる実験の結果などが、それを示しています(たとえば一九九八年 ウィルコックスベイラジオン幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用。生後三ヶ月の赤ちゃんは、もうきちんと存在感の発生機構を持っているらしく、物陰に隠れたおもちゃの位置を正しく予測できるのです。赤ちゃんは、イナイイナイバアが大好きですが、こうして遊びながら、世界の法則を学び、同時に、存在感のつかみ方を身につけていくのです。たとえば、存在感のあるひとかたまりの感覚信号源(たとえば、猫)は、速度をゆっくり変えながら空間を移動していくこと。その形状はふつう、ゆっくりとしか変化しないこと(猫は爆発したり蒸発したりしないこと)。世界には、似たように見えるものが、いくつかずつあること(動物の動きはみんな似ている)。似たように見えるものは似たような動き方をすること。似たように見えるものは私たちが同じ操作を加えるべきものであること(カテゴリと運動様式の対応)、などなど、です。逆に言えば、私たちが身につけている存在感覚は、世界にありふれたこういう物たちに対して、強く感じるようにできているのです。

存在感は、「そこに存在するかのように感じられる物質を存在するものと仮定して運動を計画し、それを実行しても危険はありませんよ。逆に無視すると危険ですよ」と身体に教える脳の仕組みです。たとえば「目の前の敷石を踏んでも、踏み抜いて地下に転落することはありませんよ。脇にある水溜りを踏むと靴が台無しになりますよ」ということが、その敷石や水溜りの存在感です。身体がうまく運動できるための実用的な脳の仕組みです。身の回りの物質の間をうまく動き回り、物質を掴んだり、ちぎったりして利用するために身体の筋肉をうまく収縮伸展させるための運動の計画を作る準備活動です。これからする運動を適切に計画するという形で、身の回りの物質の存在感が脳に取り込まれるわけです。こういう脳の生理的反応が起こると、物事の存在感が感じられます。

「そこにその物質が存在する」という意味はそれだけのことです。つまり、自分の次の運動に関連して、そこのその物質がどう関わるかを計算する神経機構のシミュレーション活動の結果、脳の前部帯状回、扁桃体、海馬、側坐核などの神経細胞膜電位が変化する、ということを意味しています。

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存在のメカニズム

2007年03月10日 | 4世界という錯覚を共有する動物

Hatena32 私たちの身体の外にある物質から感覚器官を通して入ってくる感覚入力信号は、抹消神経系から求心神経経路を伝わって中枢神経系へとさかのぼり、視床と大脳皮質を経由して扁桃体、前部帯状回の神経細胞群の膜電位を変化させます。この神経細胞群の電位変化は側坐核と大脳側頭葉の神経回路を活性化して運動神経に指令を出して筋肉を動かし、その結果、身体の形と位置を変化させます。身体運動の結果、身体によって動かされた物質の位置や状態の変化を反映して、物質から感覚器官に入ってくる信号は変化します。その入力信号がまた脳に入って来ます。たぶん、その繰り返しが、身体外の物質の存在感を、はっきり意識するまでに強化する仕組みなのでしょう。これは全部、脳内で無意識に進む信号処理らしく、その過程は意識できません。

脳と身体と、身体が作用する目の前の物質との間の相互作用と、それによる頻繁な運動信号と感覚信号の出入りで、その物質の存在感はどんどん強くなっていくわけです。その間、脳は、物質に関してどのような身体運動ができるか(シミュレーション)を無意識に計算し続けています。時間にして一秒の数分の一くらいの短い一瞬です。このくらい脳の計算が速くなくては、キャッチボールはできません。

目の前のその注目する物質の存在感ができ上がると同時に、脳は物質に関しての自分の身体が次の瞬間に動くための運動計画を作り上げます。つまり側坐核とそれに連動する大脳、小脳の運動形成回路は、目の前に存在するらしいその物質を取り込んだ運動シミュレーションを、瞬時に、自動的に展開します。それがさらに再帰的にその物質の存在感を強化し、運動を実行すると同時に、その経験を脳に記憶していく。これで、そこに何が存在しているか、という認識を私たちは持つ。これが存在という現象のメカニズムです。逆に言えば、私たちがうまく運動を計画して実行し、それを記憶するために、身体の周りに物質世界というものがはっきりと存在するのです。

拝読ブログ:サルの品格

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存在感=存在の感覚

2007年03月09日 | 4世界という錯覚を共有する動物

目の前にある物体(たとえば、このパソコン)は目で見えるし、身体を動かしていろいろな角度から見ると立体的な形が分かります。手でなでたり触ったりすると、その物質がそこに存在するに違いないと感じるからですね。視線を向けるとその物は視野の中心に来る。顔を近づけると、その分だけクローズアップできる。顔を左右に振ると、立体感が分かる。触ると硬い。つまり私たち人間は、自分の身体の位置や運動と、その物質から目や耳や触覚などの感覚器官が受け取る感覚信号との相互関係で、それ(たとえば、このパソコン)がたしかに存在していることを感じるわけです。

物質表面が反射する光が網膜に映ることで生じる視覚、顔を動かすと網膜上の映像がずれることで分かる立体感、触ると身体を押し返す物質表面の触覚、などから、その物質がそこに確かに存在するということが分かるからです。こういうことは考えて分かるのではなくて、自動的に無意識のうちに分かってしまうのです。直感で、確かな存在感が感じられるわけです。

物が存在するという感覚、すなわち、存在感、という感覚が、脳神経系のどこでどのように生じているのか、現代の神経科学者たちは脳画像装置を使って実験観察を繰り返していますが、まだ、はっきりした結果は得られていません。大脳の辺縁系基底核、特に扁桃体前部帯状回などに病変があると、物事の現実感や自己感覚が損なわれると報告されています。(現状の脳科学で、存在感の観察がうまく行かない理由は脳測定装置の精度の不足ともいえますが、それとともに、筆者の見解では、意識が神秘だという先入観にこだわって科学者たちがかまえすぎているという問題があります。詳細は後述予定)

拝読ブログ:クオリア

拝読ブログ:あぶない脳。<あぶ脳まる>

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世界という錯覚を共有する動物

2007年03月08日 | 4世界という錯覚を共有する動物

人間は、なぜ、ここに世界があるように思うのでしょうか?

不思議です。筆者は、これが不思議だと思っています。でも、家族には言いません。みなさんも、こんな疑問を、家族に言いますか?

しかし、だれにも言わなくても、ここに世界があるようにしか思えない。

考えてみれば、世界があるのは当たり前のことです。世界があるから私たちがいて、「世界がある」と思っているわけですから。でもなぜ、人間は、自分がその中にいるこの世界があると思うのでしょうか? 他の動物は、普通そんなことは思わないでしょう?

人間という動物は、世界がこういうふうにあると思っています。しかも仲間の人間の誰もが同じように、世界がこういうふうにあることを知っている、とお互いに知っているのです。人類はこういうように世界の認識を共有する動物なのです。他にこんな動物はいませんね。

どこの店のラーメンが美味しい、と聞けば、唾が出てきます。ラーメン屋の位置だけでなく、美味しさまでを共感してしまうわけです。ラーメン好きの友達どうしの共感だから、ということばかりではありません。歩道に水溜りがあれば、通行人は避けて通る。前を歩いている人が避けて通るのを不思議という感じはまったくしません。ロボットがそれをしたら不思議だと思うでしょう?

人間は、どの人間でも、世界を自分と同じように知っている。それが人間だ、と私たちは深いところで思いこんでいるのです。なぜでしょうか?

拝読ブログ:忘れるように出来ている? アルツハイマー病と脳と人と夢想

拝読ブログ:世界の中に自分がいる、自分の外に世界がある

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あるように思えるだけ

2007年03月07日 | 3人間はなぜ哲学をするのか

さて、その程度のことが分かってはいても、今現在の状況では、私たちの感じ方が錯覚だからといって、すぐ改めるわけにもいかない。現代科学の実態を知っている科学者も自分の日常生活では、当然のこととして、自分は目の前にある物事を認識し、それについてしっかり考えた上で意思を決定して行動している、と思い込んでいます。

その思い込みの上に作られている言葉たち。世界、命、心、私、幸福・・・そして、存在、認識、思考、欲望、意思、意識・・・。

それらの言葉で表されるものたちは、現代人の私たちにはしっかりと存在しているように感じますが、この世にそういうものが本当にあるのでしょうか? あるように思えるのは本当ですが、本当にある、というのとは違いますね。

あるように思えるだけではないでしょうか? そして、あるように思えるということだけが、人間の知り得るすべてではないでしょうか? 

哲学はたぶん、ここにつまずいて間違っていったのです。私たち現代人はこのことに気がつき始めています(たとえば 二〇〇二年 ダニエル・ウェグナー意識的意思の幻影』)。たぶんだから、そういう、かつては重みを持っていたはずの言葉たちも、それを頼りにする哲学も、人々から見放されていくのです。

(サブテーマ「人間はなぜ哲学をするのか」end

(次からはサブテーマ「世界という錯覚を共有する動物」ご愛読を請う)

拝読ブログ:数学する遺伝子

拝読ブログ:哲学のすすめ/梅原 猛・ 橋本 峰雄・藤沢 令夫 NO,

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