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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

概念=擬似的な存在感

2007年03月21日 | 4世界という錯覚を共有する動物

さて、問題は哲学に関係する存在感ですが、人間が感じる目の前の世界の存在感は錯覚からできていると思うにはあまりにも鮮烈で、紛れもなく現実と感じられます。物質世界の明快なこの存在感につい乗せられて、人間は物質に表れない存在についてまで言葉で語れると思ってしまいます。あるように感じられるものは、ある。だから、目に見えないけれどもあるように感じられる(他人の)心のようなものも、ある、と思えるのです。目に見えなくて、耳にも聞こえないけれども私たちに強く訴えてくるもの、たとえば感情、願望、信念、抽象概念、そういうものはたくさんあります。たとえば概念は、もともと動物が運動するときにあらわれる神経活動を自覚するところから来るようですが、人間の場合、多くは目の前の物質には対応しない抽象的なものになります(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』)。

人間は、そういう目に見えないものについても、その存在感が強ければ、それが自分の外側にあるように感じてしまう。それをだれかに言葉で言いたくなって、誰にでも通じそうな言葉を作ってしまいます。実際、人間どうし、相手の目を真剣に見つめて感情を込めて語れば、どんなことでも通じてしまうようなところがありますね。曖昧ではあっても何かを懸命に言おうとすれば、それなりの言葉は通じてしまいます。

言葉が通じることは、擬似的に存在感を感じられるということです。言わんとすること、言わんとしているなと感じられること、それが言葉で表わされて擬似的な存在感を仲間と共有した瞬間に、それはモノとなって人間の身体の外側にあることになる。そのモノは、物質世界にある物と同じようにある、と感じられてしまいます。そうすると次には、それらの言葉を使って、そのモノについてそれがはっきりとした輪郭を持つ物質であるかのように、自信を持って語りたくなるでしょう。

とくに、職業として言葉を使いこなして文章を書いたり講義したりする人たち(拙稿では言語技術者という)は、言葉の存在感を最大化する必要を持っています。新聞やテレビのようにそれがビジネスになれば、なおさらです。人々は権威ある言葉を聞きたがっている。語る側としては当然、印象の強い新奇な、あるいは深遠な何かむずかしいことも語りたくなるものです。しかし、それが間違いのはじまりです。それをするから、間違った哲学ができてしまうのです。

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自然言語は脳上のシミュレータ?

2007年03月20日 | 4世界という錯覚を共有する動物

人間が感じる世界の存在感は、まずいつも無意識に感じられていて、そのまましばらくたつと、忘れていくようです。特に印象に残った場面、あるいは感情を伴った情景を、記憶したり思い出したり言葉で語るときだけ、はっきりと意識に上ってくるようです。

ちなみに、世界の認知に関して最近の現代哲学では、言語の働きを強調する傾向にあります。言語の学習によって脳神経細胞ネットワークの上に言語処理シミュレータが形成されることで世界の意識的認知と自我意識が生ずるという仮説(一九九五年 ダニエル・デネットダーウィンの危険な思想:進化と生命の意味』)や、世界をデータ化して計算するために言語が脳の補助計算装置として使われているという理論(一九九八年 アンディ・クラーク魔法の言葉:言語は人間の計算能力をいかに補強しているか』)、人間は言語によって思考を思考の対象にできるようになった(二〇〇三年 ホセ・ベルミュデス『言語と思考に関する思考』)など、諸説が入り乱れていますが、いずれも、世界認知のためには、言語が必要条件と考えられているようです。また最近の実験心理学の結果からは、人間は無意識に行っている数個の個別の(モジュール的な)世界の認知を言語によって統合して知的な活動を可能にしているらしい、というおもしろい仮説(二〇〇三年 エリザベス・スペルク何が人間を賢くしたか?)が唱えられています。

これら最近発表されている諸説に比較して拙稿の考え方の特徴を挙げれば、人間は系統発生的にも個体発生的にも、言語以前に仲間と共鳴共感することで世界の存在感を獲得していてそれが言語の発生を導いた、と考える点です(このテーマにはまた後で戻る)。

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神経系の最適設計

2007年03月19日 | 4世界という錯覚を共有する動物

こういうふうに見えないものが実は存在する、と思うことは錯覚といえば錯覚です。しかし、錯覚といっても、仲間のだれもがその錯覚を共有していれば、人間どうしはそれがあると感じて語り合い生活していくのに何の問題もありません。

人間が感じるこのような世界の存在感は、人類が生存し繁殖するために役立ったから、私たちがそれをこう感じるような神経系を持つことになったのです。この存在感は、人間が集団として、物質世界の過去の変化を記憶し、それを使って繰り返し現れる法則を拾い出し、さらにそれを使って、これからの自分たちの運動の計画を上手に立てるための機構として自然にできてきたものです。それは、うまくできた錯覚の組み合わせです。最小限の神経系の大きさで効率よく物質環境の変化を予測し、上手な運動計画を作ることで生存上の利益を最大限に上げることが、脳の最適な設計です。世界全体の真理を正しく理解して、全部記憶する必要などはまったくありません。生存に役に立つ最小限の要点だけを記憶すればよろしい。後は、必要なときに要点をつなげて全体像を描き出せればよいのです。それには、うまく錯覚を作ることが効率的なのでしょう。

たぶん、私たちの脳は、そういうふうにできているのです。世界の像を描き出す最小限の情報が記憶される。その情報から仲間と共有できる錯覚が再生される。それで集団として感じる時間と空間としての(錯覚の)世界の中で、人間は仲間と言葉で語り、生きていきます。

拝読ウェブ:Wow! That's Amazing

(手品のサイト:自分が認知する世界の像がいつも錯覚であることに気づけば種が見破れます)

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アリストテレスをまねる

2007年03月18日 | 4世界という錯覚を共有する動物

要するに、人間は集団として身体運動を連動・共鳴し、存在感覚を共感することで、整然とした法則に従って変化するように感じられる物質世界のモデル(共有する錯覚によるモデル)を各人の脳内に作り出しているのです。それは、人類という動物に特有の脳の機構です。他の動物と人類との違いが際立つ特徴といえます。アリストテレスは、「人間とは、言葉を有する動物だ」と言いましたが、それをまねて、拙稿としては、「人間とは、世界という錯覚を共有する動物だ」と言いたいと思います。

たとえば、私の頭の後ろには、さっき見たがあります。そのは、今は後ろ側にあるので、私の視界からは見えませんが、確かに実在すると思ってよいのです。それは、いつでも振り返れば、思ったとおりそのが見えるからです。こういうことは、私も含めて人間のだれもがそう思っている、ということを私は知っています。そばに来た人が、「雨が降りそうですね」といって、私の後ろのほうを見る。その人がを見ている、ということが私には分かります。それが確かだから、この世界は、見えないものも、人間が存在すると思っているように存在する、と思ってよいわけです。首相官邸の中に安部晋三氏がいる、とテレビが言っていれば、会ったことがない人だとしても、その人は存在するのです。神社の奥に向かって、みんなが手を合わせていれば、そこに神様がいるのです。人々が存在すると思っているものは、存在する、といえます。

拝読ウェブ:首相官邸

拝読ウェブ:ニセ首相官邸

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フレーム問題はない

2007年03月17日 | 4世界という錯覚を共有する動物

なぜ、自動車の外部照明灯は前方にしかついていないのか、横も斜めも後ろも強力に照らせばよいじゃないか。そうしないのは、無駄な装置をつけるコストを省くためであり、バッテリの容量とエネルギー消費率を必要最小限にするためです。人間の脳という情報処理系でも、脳の容量とエネルギー消費率は、生きていくのに必要な情報処理にとって最小限になっているでしょう。そのように脳を進化させた人類の種族が生き残ってきたはずです。その理由で、人間の脳は注目している一点以外の世界の情報はほとんど保持しないのです。

つまり、目の前のこの物質世界は、今の瞬間に感覚器官で感じられる小部分から取り込める感覚情報を私たちの脳に送り込んでくれますが、世界のそれ以外の部分については、存在していないのと同じように、何の情報も私たちの脳には送ってくれません。そして、過去の記憶は急速に減っていく。今しばらくの間で見えている部分以外の世界の部分があるといっても、ないといっても、脳内にある情報としてはどちらもまったく同じことになります。それでも、身の回りのことは全部見えているという感じがします。私たちは、見えるものは全部見える。いま見えないものは見えないのが当たり前、と思っていますから、何の不思議も感じずに、この世界全体はこのように実在している、と思い込んでいるわけです。

人間の脳は、全体を見渡して行動を計画しているのではありません。私たちがそう思いこんでいるのは錯覚です。一瞬一瞬に感知した小さな情報だけに対応して、動物は運動しています。人間も基本は同じ。そういう事情からも、世界のデータが全部脳内に入ってきて、情報でパンクしてしまう心配(フレーム問題という)はありません。

拝読ブログ:ロボット君にお願いしたいが?

拝読ブログ:なぜ勉強するのか?

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