さて、問題は哲学に関係する存在感ですが、人間が感じる目の前の世界の存在感は錯覚からできていると思うにはあまりにも鮮烈で、紛れもなく現実と感じられます。物質世界の明快なこの存在感につい乗せられて、人間は物質に表れない存在についてまで言葉で語れると思ってしまいます。あるように感じられるものは、ある。だから、目に見えないけれどもあるように感じられる(他人の)心のようなものも、ある、と思えるのです。目に見えなくて、耳にも聞こえないけれども私たちに強く訴えてくるもの、たとえば感情、願望、信念、抽象概念、そういうものはたくさんあります。たとえば概念は、もともと動物が運動するときにあらわれる神経活動を自覚するところから来るようですが、人間の場合、多くは目の前の物質には対応しない抽象的なものになります(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』)。
人間は、そういう目に見えないものについても、その存在感が強ければ、それが自分の外側にあるように感じてしまう。それをだれかに言葉で言いたくなって、誰にでも通じそうな言葉を作ってしまいます。実際、人間どうし、相手の目を真剣に見つめて感情を込めて語れば、どんなことでも通じてしまうようなところがありますね。曖昧ではあっても何かを懸命に言おうとすれば、それなりの言葉は通じてしまいます。
言葉が通じることは、擬似的に存在感を感じられるということです。言わんとすること、言わんとしているなと感じられること、それが言葉で表わされて擬似的な存在感を仲間と共有した瞬間に、それはモノとなって人間の身体の外側にあることになる。そのモノは、物質世界にある物と同じようにある、と感じられてしまいます。そうすると次には、それらの言葉を使って、そのモノについてそれがはっきりとした輪郭を持つ物質であるかのように、自信を持って語りたくなるでしょう。
とくに、職業として言葉を使いこなして文章を書いたり講義したりする人たち(拙稿では言語技術者という)は、言葉の存在感を最大化する必要を持っています。新聞やテレビのようにそれがビジネスになれば、なおさらです。人々は権威ある言葉を聞きたがっている。語る側としては当然、印象の強い新奇な、あるいは深遠な何かむずかしいことも語りたくなるものです。しかし、それが間違いのはじまりです。それをするから、間違った哲学ができてしまうのです。
拝読ブログ:学力と授業方法 その6