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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

心=マンガ?アニメ?

2007年03月26日 | 4世界という錯覚を共有する動物

人間が仲間の人間の目に見えない内面の変化を感じ取る能力は、改めて考えてみれば、驚異的といえますね。プロの漫画家は、それを絵として表すことができます。簡単な線画で、同時に何人もの性格、表情を描き分けていきます。そのキャラクターを描いているとき、漫画家はその人の内部に入り込んでいるのでしょう。マンガは絵が付いているから人の内面を描きやすい。小説などは、その点、マンガにかなわないところがあります。たとえば、心理描写は、一人称を使ったり三人称を使ったり、三人称でも一視点とか多視点とかいろいろの形式で書かれますが、読者には、その形式が見えてしまいます。しかしマンガの場合は、顔を描くことで、さりげなく複数の人の内面に入っていける。映画も似ていますね。カメラは人物の外面を撮っているから、三人称描写ともいえるが、観客はその主人公になりきっています。このことは、人間の(憑依を使った)相互理解が、言語以前のものだということを示しているといえます。

漫画家は、プロだからリアルに何人ものキャラクターの絵が描ける。しかしプロの漫画家ではないふつうの私たちでも、絵は描けませんが、同時に何人もの他人の内部に瞬時に入り込んで,楽々とその行動を理解しているのです。そうでなければ、人間としてこのように複雑な社会生活はできません。人類の神経系の高性能なこの機能は、たぶん、私たちの先祖がジャングルで群れ生活をしているころから進化してきた機構なのでしょう。

視線、表情など他人の運動に誘発されて、自分の脳内の運動形成神経回路が、無意識のうちに自動的に共鳴して連動するのです。それを他人の「心」と感じる。その物体が本当に人間であるかどうか、は問題ではありません。その物の見かけが、その動きが、いかにも人間らしければそれで十分です。映画でも良いし、アニメでもよい。

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心脳問題(霊の影響力は零?)

2007年03月25日 | 4世界という錯覚を共有する動物

「心」もまた同じです。

心の問題は、人間にとって、実際一番大事なことです。古来、宗教、哲学、芸術、文学、心理学、社会科学、政治、経済、その他、人間の学問も日常活動も、ほとんどすべて、心の問題をめぐって発展してきました。自然科学など、ごく一部の理系の活動以外は、心を問題にせずには、人間は仕事も会話もできません。しかし、それにもかかわらず、心は、根本のところで、それが存在するのかどうかがよく分からない。むしろ存在しないのかもしれない、というところがあります。

科学をつきつめるほど、心は物質ではないことがはっきりしてきます。ここで、古来の心身二元論(現代的には心脳問題という)がふたたび議論になってきます。物質ではない心が、どうして物質である人体に影響を及ぼすことができるのか? 現代哲学では、この問題に否定的な答を出す明解な理論を確立しています(たとえば二〇〇一年 ジェゴン・キム『孤独な魂:因果律と実体二元論』)。しかし、残る問題は、では心とは何なのか? なぜ、私たちは毎日、心とかかずらわって生きているのか? ということでしょう。この興味深い問題については、後で詳しく論じたいので、ここでは簡単に筆者の見解を述べておきます。

人間の脳は、人間のように見える顔や形を持つ物体が人間の身体運動と同じような動きをしている場面を見ると、無意識のうちに自動的に脳内の運動形成神経回路がその動きをなぞって、自分が運動するときと同じ神経活動をするようにできています。脳のこの仕組みは、動物に群行動を起こさせる神経機構から発展したものでしょう。これは人間が生まれつき持っている神経系の機構で、目に見える他人の人体の内部で働いている運動形成過程を瞬時に感知する能力(拙稿では憑依という)です。社会生活を生き抜いていくために進化した脳の機構でしょう。

人間は、だれもが、すれ違った他人の視線や表情の一瞬の変化から、その人がこれからしようとしている身体の動きを無意識のうちに予測しています。この機構を理論として研究する現代哲学の分野があり、心の理論の研究とか、理論の理論(駄洒落じゃなくて、本当にそう呼ぶ)などといわれています(一九九六年 ピーター・カルーサーズ心の理論の理論』など)。もちろん、現代哲学には、心の理論などないという理論(ゴールドマン既出など。拙稿も心の理論というよりは無意識的な神経機構としての憑依という見方を取る)とか、いろいろの見解があります。

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死などもともとありはしない

2007年03月24日 | 4世界という錯覚を共有する動物

カミナリも、ゴロゴロと吼えたり光ったりするから、命があるらしい。火山も火を噴いたりするから。命があるらしい。そう感じると、自然の物事は、たいてい命があるように見えます。それが、未開人のアニミズムです。生物でないものにも命を感じてしまうのです。逆に自閉症の患者は、人間にも命を感じられない。命を感じる神経回路が損なわれていれば、人体も机も同じ無機的な物と感じるでしょう。

現代人は、生物学を知っていますから、生物以外に命はないと思っている。しかし、生物もただの物質です。物質には命、などはありません。細胞はたんぱく質、DNA,その他の有機分子からできている構造物だし、たんぱく質DNAも大きくて複雑ではあるが構造がはっきり分かっている分子のかたまりです。

人間も含めて生物、つまり生きているように見える物体の内部には、命はない。それを見ている観察者である人間の脳内に錯覚として、その命はある、といえます。だから命は目に見えない。命が目に見えないこと、それは神秘ではありません。命の大事さについて、命の神秘について、むずかしい理論を語る哲学は、存在しないものについて語り続けることになってしまうのです。

ハイジャックにあったとき、「お前たちの命は俺の手の中にある!」と叫ぶ犯人に悠然と言い返してみましょう。「その前に、お前の命は私の頭の中にあるということが分からないのか」。犯人はおびえて降参するかもしれませんよ。

まあ、命などというものはこの世にはない、と言い切ってしまうと、みもふたもない。「死とは何か」と聞いても、はじめから命がない人間(およびすべての生物)に、死などもともとありはしないわけです。何を問題にしているのか分からなくなってしまう。脳死の問題も議論する必要がなくなる代わりに、宗教家も哲学者も活躍の場がなくなってしまいます。命の大切さについて小学生に教えなければならない先生も、困ってしまいます。

だが、大丈夫です。心配は要りません。命が錯覚だとしても、その錯覚は、人類のだれものそれぞれの脳内に、強い感情を伴ってしっかりと共有されていることは間違いないのですから。人間とは、命という錯覚を共有する動物、といってもよいくらいです。そうであれば、人と人が交わる限り、命は一番大切なものでないはずがありません。

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植物も生きている?

2007年03月23日 | 4世界という錯覚を共有する動物

その「命」を宿す物質が、自分よりかなり小さければ、餌食だから食いつく。大きくてこちらに向かってくれば、捕食者だから逃げる。同じくらいの大きさでエロティックな匂いがすれば、配偶者だから交尾する。動物の脳は、そういう動きが出てくる仕掛けになっています。人間の脳神経系も脳幹、大脳辺縁系基底核など無意識の深いところでそういう動きが出てくるようになっているはずです。その脳神経系の動きが引き起こす存在感、それが「命」の正体です。

人間の脳には、目や耳の情報だけから、目の前の動物らしい物体の中に「命」を感知する特有の神経回路が生まれつきできているのです。動物などの神経筋肉運動を、風に吹かれる無生物の動きなどと区別して感じ取り、その働きを自覚して、人間は生きているものと生きていないものを直感で区別できます。そして四歳児くらいになると、仲間の人間も、目の前のその「命」を宿す物質に遭遇したときの身振りや表情で、明らかにそれを感じているらしいことが分かります。

さらに、五歳児になると、成長するもの、植物、をも命を持つものに含めるようになります(一九九六年 稲垣佳世子、波多野誼余夫『幼児の動物植物間共通点の認知{英文}』)。それら、動き方、成長、病気、怪我、死、誕生などという特徴を感じられるもの。人間どうしがそれを見れば互いに共感できるそれに、命、という言葉を対応させる。それが「命」、そして生と死、生きること、死んでしまうことの、もともとの意味です。それ以外に神秘的な意味などはありません。

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生物学に命はない

2007年03月22日 | 4世界という錯覚を共有する動物

「命」もまた同じようなものです。

生物学では、動物のほか、動かない植物、カビ、目に見えない微小な細菌、なども生物としています。それら自然現象に共通する生命の定義も作っています。しかし、その定義は、科学的分類のために作られた人工的な「生命」概念です。それと、私たちが日常語として使う「命」という言葉が示しているものとは別のものです。

刺激に反応し餌食を襲い、あるいは身を守るかのごとく運動する物体を見ると、人間の脳は自動的に「命」を感じます。生物学の教科書を読んで「命」を理解するわけではありません。言葉を知らない幼児も「命」とは何か、はっきり分かっています(たとえば、二〇〇四年 ミッシェル・モリーナ他『幼児期における生物―非生物の区別:人間の動作に関する制約への感受性の発達』)。そこにある物体の動き方を見て、無生物とは違う、神経で筋肉を動かして動いているような、あるいは、何かしようとして動いているような、動きを読み取れる場合、観察者の脳の中には、ある特有のパターン認識の感覚信号が発生するわけです。

現代人のように都市環境で育った人間は、自然の動物を見る機会が少なく、動物といえば、人間とペットくらいしか知りません。しかし、つい最近まで、すべての人間は大自然に囲まれて育ち、その環境で作られた言葉を現代に伝えているのです。命も、大自然の中で作られた言葉であって、人間を含めた動物、生物に共通な特徴を感じ取る人類共通の感覚に根付いています(二〇〇一年 スコット・アトラン他『素朴生物学は素朴心理学からくるのではない:ユカタン・マヤ族の比較文化研究における形跡』)。

その物体は、何か外のものに反応して動いているらしい。何かから逃げようとしている。隠れようとしている。何かを襲おうとしている。食べようとしている。近づいて相手を調べようとしている。そう感じられるとき、観察者の脳では、特有の神経回路が活動しています。脳(の扁桃体など辺縁系)は、受けた感覚信号を情報処理して、そのような特徴を抽出すると、特有な電位変化を発生するわけです。それで言葉などを思いつく以前に身体がそれを知ってしまう。そういうものを、昔から人間は「命」と呼んできたのです。

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